井原正巳が振り返る日本代表の12年間。「日本サッカーの激動の時代に代表に絡めたことは大きな財産」

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • photo by REUTERS/AFLO

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日本代表「私のベストゲーム」(13)
井原正巳編(後編)

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 日本代表の歴史を振り返ると、今でこそ出場するのが当たり前になったワールドカップも、かつては夢の世界だった時代が長く続いた。

 世界を目指すどころか、アジアですら頂は遥か彼方。事実、1990年イタリア大会のアジア予選では、最終予選にすら進めず、一次予選敗退に終わっている。

 井原正巳が初めて日本代表に選ばれたのは、そんな頃の話だ。

「大学生の時に代表に初めて選んでいただいて、自分が代表に入っていながら、当時イタリアのワールドカップに本当に行けると思って予選を戦っていたのかと言えば、日本でのサッカーの注目度であったり、盛り上がりも含めて考えると、行けなくて当たり前じゃないですけど、まだ遠い存在だったのかなとは思います。

 自分自身も本気でワールドカップを目指していたのかというと......、ちょっとクエスチョンのところもありますし、それは夢の舞台なんだろうなというくらいの、そういう遠い存在ではありました」

 井原が、ようやくワールドカップ出場を現実的なものとして考えられるようになったのは、1994年アメリカ大会のこと。すなわち、"ドーハの悲劇"で知られる予選からだ。

「オフトジャパンになって、日本代表がダイナスティカップ(現E-1選手権)やアジアカップで結果を出すことができて、ワールドカップへの出場権を獲得するための自信につながりました。ちょうどJリーグが1993年に開幕して、そこでの盛り上がりも代表チームの強化につながったと思います。

 夢だったものが手の届きそうな目標に変わってきて、ドーハ(アジア最終予選)の時には(ワールドカップへ)行けるんじゃないかなという、そういう思いにはなっていました。実力的にも手応えをつかんで臨んでいたのが、アメリカ大会の予選だったと思います。その時は、ようやく日本代表がアジアのなかでもトップレベルの位置まで来たなという実感がありました」

 結局、アメリカ大会は最後の最後で予選突破を逃す悲劇的な結末に終わるのだが、もはやワールドカップは自分たちの手の届くところにある。そして、次こそは絶対につかみとらなければいけない。それを改めて認識させられたのが、この時だった。

「もちろん運不運もあったと思いますけど、残念ながらドーハで結果を出すことができず、最終予選を勝ち抜くことの厳しさを教えられたのが次のフランス大会につながったのかなとは思います。この悔しさを晴らせるのは、次のワールドカップ予選しかないと思っていましたから」

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