中村憲剛と佐藤寿人がワールドカップに行けると思った時は?「タマーダのあとがマキじゃなくて...」 (3ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by AFLO

---- 日本でワールドカップが開催されたことは、今振り返ってどういった影響があったと思いますか。

中村 日本人にとってワールドカップ、そしてサッカーが身近になりましたよね。当然ですけど、実はそれはとても大きいことだと思いました。ワールドカップを自分の国で体感したことで、サッカーを始めた子どもも増えただろうし、Jリーガーを目指す子どもも増えたはず。

 当然、経済効果もあっただろうし、日本代表を見る目も変わっていった。いろんなものが日本に残ったと思います。個人的に言えば、マラドーナから始まったワールドカップが、自分の国に来たというインパクトは本当に大きかったですよ。

佐藤 日韓ワールドカップが終わったすぐあとに、2004年のアテネオリンピックに向けてU−21代表が始動したんです。トルシエさんの下でコーチを務めた山本昌邦監督が「アテネ経由ドイツ行き」というキーワードを掲げて活動をスタートさせたんですが、僕らアテネ世代にとって、ワールドカップが自国で開催されたことは刺激になったし、次のドイツを目指そうという選手は多かったと思います。

 僕の場合はさっきも言ったように、選手でいられるかどうかわからない状況だったので、そういう想いにはならなかったですけど、世代的にはまずはアテネのピッチに立って、ドイツに行くということを、リアルに考えられるようになっていたとは思います。

---- おふたりが本格的にワールドカップ出場を目指すようになったのは、いつくらいですか。

中村 2003年にプロになりましたけど、最初の2年間はJ2でしたし、J1に上がった2005年にはもうジーコジャパンの骨格は出来上がっていましたから。

 そもそも2005年に初めてヤットさん(遠藤保仁)や(小笠原)満男さんと対戦するようになって、ふたりはひとつ歳上でしたが、「こういう人たちがA代表なんだ」と思いながらプレーしていたので、2006年のワールドカップに自分が出るなんて、1ミクロンも思っていませんでした。ただひたすら、J1の壁を感じていましたよ。

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