中村俊輔が02年W杯メンバーに選ばれなかった非情。トルシエが代表監督の4年間は成功だったのか

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

何かが起こるW杯イヤー(2)~2002年
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 2002年日韓共催W杯に臨んだトルシエジャパンは、韓国とともに、開催国の特権で予選を免除されていた。W杯と言えばまず予選。1994年アメリカW杯予選ではドーハの悲劇、1998年フランスW杯ではジョホールバルの勝利という劇的な戦いをたて続けに経験したファンにとって、物足りなさがあったことも確かだった。4年間をどう過ごすべきか。日本サッカー界に突きつけられたテーマでもあった。

1998年から4年間、日本代表監督を務めたフィリップ・トルシエ1998年から4年間、日本代表監督を務めたフィリップ・トルシエこの記事に関連する写真を見る 前回のフランスW杯アジア最終予選の最中には、監督解任劇が起きた。だが、予選がないとなると、解任のタイミングを見いだすことは難しい。こう言ってはなんだが、監督経験豊富とは言えないフィリップ・トルシエにとって、日本代表監督は"おいしい仕事"となった。実際、解任論が高まりを見せたことはなかった。しかし、あれからおよそ20年が経過し、ファンの目が肥えた現在ならどうだろうか。トルシエは4年間、職務を全うできただろうか。

 振り返れば、危うい場面は存在した。本大会までおよそ1年2カ月後に迫った2001年3月24日。スタッド・ドゥ・フランスでフランスと対戦したトルシエジャパンは、0-5のスコアで大敗した。ラグビーならば100点差負けのようなものだ。

 5点目が生まれたのは後半23分。するとその直後、右のタッチライン際でボールを受け、ドリブルを開始しようと前かがみになったロベール・ピレスに、背後のベンチからに声が飛んだ。「やめておけ」だったに違いない。ピレスは身体を反らせながら後方にボールを戻した。

 後半なかば、早くもフランスは手を抜いた。もし日本の代表監督がフランス人でなければ、遠慮せず6点目、7点目を奪おうと、日本の息の根を止めにかかってきたかもしれない。トルシエはラッキーだった。日本のファンも、大敗に落胆したと言うより、フランスの強さに舌を巻いたという感じだった。

 予断を許さない状況は続いた。ちょうどその1カ月後、スペインとのアウェー戦が待ち受けていたからだ。2001年4月25日。場所はコルドバだった。

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