「受験番号22174をマークせよ」 江川卓の慶應大受験は前代未聞の報道合戦の末、まさかの結末を迎えた (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 とにかく江川が受験をする以上、慶應側も愛知の豊橋で勉強合宿を開催するなど抜かりはなかった。その合宿に参加した丸子実業の堀場秀孝(元大洋)が、当時の様子を振り返る。

「まず8月に慶應の日吉校舎でセレクションがあって、着いた初日は顔合わせだけで、2日目、3日目は午前が練習で、午後が模擬試験だったと思います。『今のままではちょっと危ないから、こういう勉強したらいいよ』って言われました。それで10月の第1週か2週ぐらいに、勉強会やるから来いよっていう話になったんです。上野で待ち合わせて、慶應のマネージャーと江川と私の3人で行きました。豊橋でほかのメンバーと合流して、2日間の勉強会があって、『これからは東京でもやるから』みたいな話になった感じです」

 江川と堀場は、豊橋駅で静岡高校の植松精一(元阪神)、水野彰夫、永島滋之、滝川高の中尾孝義(元中日)、大府高の森川誠らと合流。駅近くの旅館に泊まりながら、早朝から教授の家に行き、夜まで勉強会が行なわれた。

 江川は作新学院入学後すぐに行なわれた試験で、学年1位の成績をとったほど優秀な生徒だった。2年からは学年30位までが選抜される特別進学クラスに選ばれた。さすがに高校3年時の成績は30位まで落ちてしまったが、野球部を引退してからは睡眠時間を削って毎日10時間の勉強に励み、定期的に行なわれた東京での勉強会など、勉強漬けの日々を過ごした。

 大手予備校の模試の成績から、講師はもちろん、慶應OBからも合格の太鼓判をもらった。

 1974年2月18日、慶應の試験日。

「慶應の歴史のなかで、入試がこれほど騒がれたのは初めて」

 大学職員が困惑するなか、江川は法学部の試験を受けた。そして翌日は文学部、翌々日は商学部を受験した。

 マスコミは江川の慶應受験を面白おかしく報道し、ある週刊誌は「受験番号22174をマークせよ」と、今では考えられないような記事構成で大衆を煽った。

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