江川卓に勝った男は甲子園優勝からドラ1でプロ入りも、ヒジを見たコーチは「アカン」と絶句した (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

【無名だった中学時代】

 土屋が中学2年の時、3年後に千葉で「若潮国体」の開催が決まった。高校の硬式野球の開催地が銚子ということで、市内の有望な中学生を中心に強化指定選手の名目で集め、合同練習させていた。銚子商の斉藤、千葉商の蒲原弘幸、成東の松戸健ら、県下の名だたる監督がコーチとして招かれた。そのなかには、のちに銚子商でチームメイトになる1学年上の飯野哲也、岩井美樹、磯村政司がおり、習志野に進む掛布雅之(元阪神)もいた。

 土屋が通っていた旭一中学の野球部は、練習は厳しいが弱小で、県大会など夢のまた夢だった。それでも土屋は「銚子商で野球がしたい」と門を叩く。

 銚子商に入る部員のほとんどは、中学時代はエースで4番、県大会出場は当たり前の選手ばかり。土屋は相手のことを知っていても、相手は土屋のことを知らないどころか気にも留めない。それほど中学時代の土屋は無名だった。

「入学した当時の監督から『おまえ、なんで来たの?』って。それで『5番目だ』って言うんですよ」

 要するに、5番手投手ということだ。銚子商のエースになることを夢見て入学したが、いきなり出鼻をくじかれた。それでも土屋に不安や焦燥感はなかった。あるのは「見てろよ」という反骨心と自信だけだった。

 1年生の土屋は、来る日も来る日もバッティングピッチャーをさせられた。さすがに家に帰ると、疲れて寝るだけ。

「親父から『好きなことをやりに銚子商に行ったのに、なぜ頑張らないんだ!』って言われて。それから毎朝、九十九里海岸の矢指ケ浦浜に行って走りました」

 練習に行く前、自主練習としてランニングすることが土屋の日課となった。

 1年夏までの練習メニューは20分間のバッティングピッチャーをやり、あとはひたすらランニングをするだけ。土屋は3年生の根本隆(元大洋)のバッティングピッチャー担当だった。

 根本といえば、エースで4番、しかもキャプテン。1年生からすれば神様みたいな人である。万が一、投げ損なって手を痺れさせでもしたら、機嫌を損ねてしまう。2年生からは「おまえにかかっているんだからな」と、プレッシャーをかけられる。ただ幸か不幸か、そのおかげで制球力が身についた。

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