北條史也が振り返る阪神時代の苦悩の11年 「プロに入って1、2年目でホームランはあきらめた」 (3ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

2006年9月に左肩を脱臼してからはケガに悩まされた北條史也 photo by Ushijima Hisato2006年9月に左肩を脱臼してからはケガに悩まされた北條史也 photo by Ushijima Hisatoこの記事に関連する写真を見る

【野球人生を変えた左肩脱臼】

── プロでは試行錯誤を重ね、4年目(2016年)に122試合に出場して、打率.273、5本塁打とブレイクしました。

北條 金本知憲監督にすごく指導いただいて、ガムシャラについていった感じです。正直言って、あまり当時の記憶がないんですよ。ただ必死にやっていただけなので。

── 阪神という球団は在阪メディアやファンの熱が高く、注目されるなかでのプレーはやりがいがある反面、難しさもあったと思います。阪神では発言に気をつける選手も多いようですね?

北條 それは多々ありました。記者の方から「明日は◯◯したいですか?」と聞かれて、「そうですね」と返したら、そのまま一面に「北條、◯◯宣言」と載ってしまう。まるで僕が大口を叩いたみたいに(笑)。記者の人もそれが仕事やし、仕方がないんですけどね。質問をよく聞くようにして、時には「そう書くつもりでしょ?」と訂正しながらやりとりするようにしました。

── 4年目に定位置をつかんだと思いきや、その後は一進一退のシーズンが続くことになります。

北條 4年目が終わったあと、オフにウエイトトレーニングのノルマをいただいて、体が大きくなったんです。体に力がついて、練習では打球が結構飛ぶようになりました。そこで再び「長打を打ちたい」という思いがちょっと出てしまって。力任せのスイングになって、フォームがぐちゃぐちゃになりました。

── 木のバットに変わってから、ずっと修正してきたスイングだったんですよね。

北條 僕はもともと右手の力が強くて、右手をあおるように使ってスイング軌道が遠回りするクセがあったんです。そこへ強い打球を打とうと力が入ると、体の開きが早くなったり、右手であおったりするクセが出てしまう。でも、今にして思えば、いい時の僕は体の力が抜けていて、ラクにヘッドを走らせる打ち方だったんですよね。

── 5年目は83試合の出場で打率.210とつまずきましたが、翌6年目は打率.322と好成績を収めています。何が変わったのでしょうか?

北條 また「ホームランはあきらめよう」と割り切って、力を抜くことを考えました。いい打率を残せたので、「この考え方で変われるんじゃないか?」という手応えがあったんですけど......。

── この年の9月に左肩の脱臼という大きな故障を負っています。このケガは大きかったですか?

北條 僕は脱臼する前を「第一次プロ生活」、脱臼したあとを「第二次プロ生活」ととらえています。それくらい大きなポイントでしたし、いろいろと変わってしまいました。

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北條史也(ほうじょう・ふみや)/1994年7月29日、大阪府生まれ。光星学院高(現・八戸学院光星)では1年秋から主軸を担い、2年夏から3年夏まで3季連続甲子園準優勝を果たした。12年のドラフト会議で阪神から2巡目で指名され入団。プロ4年目の16年には自己最多の122試合に出場し、打率.273、5本塁打をマーク。18年にも打率.322を記録したが、同年9月に左肩を脱臼。20年以降は出場機会を減らし、23年は一軍に昇格することなく、戦力外を受けた。その後、社会人野球の三菱重工Westに加入することが決まった。

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プロフィール

  • 菊地高弘

    菊地高弘 (きくち・たかひろ)

    1982年生まれ。野球専門誌『野球小僧』『野球太郎』の編集者を経て、2015年に独立。プレーヤーの目線に立った切り口に定評があり、「菊地選手」名義で上梓した『野球部あるある』(集英社/全3巻)はシリーズ累計13万部のヒット作になった。その他の著書に『オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり』(インプレス)『巨人ファンはどこへ行ったのか?』(イースト・プレス)『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)など多数。

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