王貞治監督と大喧嘩をした尾花高夫 辞表願を提出するも「何だい、これは?」と破って投げ捨てられた (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 一軍メンバーには入れましたか?

尾花 努力の甲斐あって、ユマキャンプのメンバーに選ばれました。私はプロに入るまでは本格派の部類だと思っていました。しかしチームには、松岡弘さん、井原慎一朗さん、永川英植さん、酒井圭一といった速球派がいました。松岡さんは押しも押されもせぬエースでしたが、永川さんや酒井はプロ未勝利でした。そんな折、ブルペンに安田猛さんという左投手が現れました。球は速くないし、どう見ても力を入れて投げているように見えない。それでも3年連続15勝前後をマークしている。なぜだろうと観察していたら、コントロールが抜群だったんです。その時、「松岡弘を目指すのではなく、安田猛を目指すべきだ」と誓いました。

── それが「コントロールの尾花」のきっかけだったのですね。

尾花 今では考えられませんが、1カ月間のキャンプで4500球から5000球ぐらい投げ込みました。「あそこに投げる」と決めて、指先の感覚と脳が一致するくらい投げ込んでコントロールを磨かなければ、この世界では生きていけないという覚悟でした。また、ユマキャンプでは1年目にローリー・フィンガーズ(MLB通算341セーブ)にスライダーを教わり、2年目にはゲイロード・ペリー(MLB通算314勝)にフォークを教えてもらいました。

── 貴重なヤクルト球団創設初優勝も味わっています。

尾花 78年の10月4日の神宮球場でしたね。初優勝ということで、球場は異様な雰囲気でした。私のプロ初勝利は、そのあとです。日本シリーズの登板はありませんでしたが、ベンチに入れさせてもらい、日本一を経験。貴重な時間を味わうことができました。


尾花高夫(おばな・たかお)/1957年8月7日、和歌山県生まれ。PL学園から新日鉄堺を経て、77年のドラフトでヤクルトから4位指名を受け入団。83年に11勝をマークすると、84年は自己最多の14勝を挙げた。後年は半月板損傷などケガに悩まされ、91年に現役を引退。引退後は投手コーチ、監督としてさまざまな球団を渡り歩き、多くの一流投手を育てた。23年2月から鹿島学園高(茨城)のコーチとして指導を行なっている。

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