甲子園であわや完全試合、ヤクルト入団拒否、イップス...新谷博が振り返るプロ入りまでの壮絶日々 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

【希望球団はダイエーだったが...】

── 当時、目標とするプロの投手は誰でしたか。

新谷 そもそもプロ野球をあまり見ていなかったので、目標とする投手はいませんでした。昔からプロには行きたかったけど、「いい球を投げていれば、普通にプロに行けるだろう」といかにも投手らしい考えの持ち主でしたね。

── 希望球団はあったのですか。

新谷 ダイエー(現・ソフトバンク)に行きたかったです。その理由は、私が九州出身ということではありません。当時のダイエーは14年連続Bクラスで、投手陣も整備されていませんでした。大学卒業後、社会人で5年、私が高校3年で指名された時から9年が経っていました。28歳の"オールドルーキー"になるわけですから、なるべく早く一軍の主力として投げたかったんです。だからダイエーのスカウト以外、会っていませんでした。

── ドラフトでは、ダイエーとは真逆の「黄金時代」に突入していた西武に2位で指名されました。

新谷 西武のスカウトからあいさつの電話がかかってきたのですが、「勘弁してくださいよ」と文句を言いました。当時の西武投手陣は、郭泰源さん、工藤公康さん、石井丈裕、渡辺智男、渡辺久信ら、錚々たるメンバーでしたから。

── そんななか、1年目は4勝、2年目は8勝、3年目からは3年連続2ケタ勝利と順調に勝ち星を重ねていきました。

新谷 投げさせてもらえれば、そりゃ勝ちますよ。打線の援護が強力なんですから(笑)。言ってみれば、敵は味方の投手だったわけです。「投げさせてもらうこと」が一番大事だとわかったのは、プロ1年目のマウイキャンプ前日の夕食の時でした。私を含めた新人3人は、遅刻しないように時間厳守で夕食会場に入ったところ、次から次と先輩たちが入ってきました。石毛宏典さん、辻発彦さん、秋山幸二さん、清原和博......。その錚々たる顔ぶれを見て「これは野球をやっている場合じゃないぞ!」と。

── どういう意味でしょうか?

新谷 味方に緊張するなんて、野球をやる以前の問題です。必要以上に先輩に臆さないようにしなくてはいけないと考えました。夜、宿舎で伊東勤さんの部屋でトランプゲームに加えていただきました。そこに集まっていた先輩方と意思の疎通を図り、打ち解けたのです。以来、ブルペンでは伊東さんが「おい新谷、球を受けてやるぞ!」と誘ってくれ、バント練習では平野謙さんが「少々ボール気味の球でも当ててやるからな」と言ってくれました。若い投手は得てして「ストライクが入らないなら代われ!」と言われ、腕が縮こまってしまうのですが、僕は打ち解けたおかげで気楽に投げることができました。そういうところは5年間の社会人生活を経験して、野球をする以前に「組織のなかでどうやって生きていくか」ということを学んだ気がします。

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新谷博(しんたに・ひろし)/1964年7月14日、佐賀県生まれ。佐賀商のエースとして、82年の夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成する。同年ドラフト2位でヤクルトから2位で指名されるも拒否して駒澤大へ進学。その後、日本生命を経て、91年ドラフト2位で西武に入団。94年に最優秀防御率のタイトルを獲得し、この年から3年連続2ケタ勝利を挙げるなど、西武の主力として活躍。2000年に日本ハムに移籍し、01年に現役引退。引退後は日本ハムコーチ、尚美学園大学女子硬式野球部監督、埼玉西武ライオンズ・レディースの監督などを歴任。23年から明治安田生命のヘッドコーチに就任した。

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