甲子園であわや完全試合、ヤクルト入団拒否、イップス...新谷博が振り返るプロ入りまでの壮絶日々 (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

【大学4年の開幕戦で起きた悲劇】

── 駒澤大では、4年間で40試合に登板して16勝6敗。新谷さんが3年の時は「右の新谷、左の阿波野秀幸(亜細亜大→近鉄)」と呼ばれるほど、戦国・東都大学リーグで屈指の投手でした。

新谷 大学では「ドラフト1位でプロに行くぞ!」と意気揚々でした。そして4年春のリーグ戦で開幕投手に指名。神宮球場のネット裏には多くのスカウトが集結していました。しかし初回、緊張のあまりストレートの四球を3人続けて出してしまい、無死満塁。怖くて投げられなくなって......突如"イップス"になってしまったんです。球がどこにいくかわからない。球速を10キロ落として、130キロくらいでストライクをとるしかないわけです。監督に「おまえ、いい加減にしろ!」と怒鳴られ降板。プロ行きも一瞬にして消え失せました。まだ本物ではなかったんでしょうね。

【覚醒のきっかけはギックリ腰】

── 大学卒業後は社会人の日本生命に進みました。

新谷 相変わらず、入社から3年はイップスに悩まされていました。そして4年目の5月にギックリ腰で10日間練習を休みました。復帰してすぐ打撃投手を命じられたのですが、その1球目に外角で空振りがとれたんです。「あれ、野球ってこんなに簡単だったの?」と。これまでの悩みが一気に消えて、2球目は145キロ。この瞬間「絶対プロに行ける」と確信しました。

── その年の秋の日本選手権でMVPに輝きました。

新谷 その頃の私にとっては当たり前ですよ。日本で一番いい投手だと思っていましたから(笑)。でも、3年間は結果が伴っていなかったので、周囲は信用するわけがない。当時、同僚の木村恵二(90年ダイエードラフト1位)を推す監督と、僕を推すコーチが激論をかわしたそうです。結局、僕が準決勝、決勝を含む4試合に投げ、3勝を挙げて優勝しました。社会人4年目に開花しましたが、会社への恩返しでもう1年残ることにしました。

── ケガの功名じゃないですけど、ギックリ腰になったことが転機だったと。

新谷 ホントです(笑)。野球人生の言わばターニングポイントになりました。自信とは不思議なものですね。

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