江川卓は6割の力で投げてノーヒット・ノーラン3回 唯一本気で投げた幻の1球があった (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

── 調子はどう?

「わかりません」

── 5分のできですか?

「わかりません」

── 7分のできですか?

「わかりません」

 マスコミ報道が過熱するのも、江川のピッチングがすごかったからだ。高校3年夏の栃木大会で、江川は怪物の名にふさわしい結果を残した。

1回戦  4−0真岡工業(ノーヒット・ノーラン/21奪三振)
2回戦  2−0氏家(ノーヒット・ノーラン/奪三振15)
準々決勝 5−0鹿沼商工(被安打1/奪三振15)
準決勝  6−0小山(被安打1/奪三振10)※8イニング
決勝   2−0宇都宮東(ノーヒット・ノーラン/奪三振14)

投球回数44イニング/被安打2/奪三振75/与四球5

 5試合に登板してノーヒット・ノーラン3回、打たれたヒットはわずか2本。しかも驚くべきは、江川曰く「3年の夏は調子がよくなかった」と6割の力で投げていたというのだ。

 ちなみに打たれた2本のヒットは、鹿沼商工戦でショート後方に落ちるポテンと、小山戦は当たりこそよくなかったが飛んだコースがよく、ライト前に転がったもの。クリーンヒットは1本も打たれていない。

【唯一本気で投げた幻の1球】

 そして江川伝説の最終章とも言える出来事が初戦で起きた。

 真岡工業戦は正捕手の亀岡(旧姓・小倉)偉民がケガのため、控えの中田勝昭がマスクを被った。江川は発熱もあり体調不良のなかでの登板だったが、5回までノーヒットに抑える。そして6回のマウンドに上がるところで江川は中田に言った。

「次の回から本気で投げていいか」

 中田は「どんどん投げてこい!」と快諾。

 その1球目、キャッチャーミットにかすりもせず、ボールはそのまま球審のマスクを直撃した。球審は昏倒し、交代を余儀なくされる。

 ベンチでその様子を見ていた亀岡は、忘れられないシーンとして鮮明に覚えていた。

「あの光景は今でも覚えています。ボールがバックスクリーンからちょっとズレると、ものすごく見えづらいんです。慣れていないと捕れない。いきなり見づらい部分と重なってしまったんでしょう。球審はムチ打ちになってしまったようで......審判の方から『出てくれないか』と頼まれ、急遽出場することになったんです」

 江川が唯一本気で投げたと言われる幻の1球。この球を最後に、県大会では力むことなくマイペースなピッチングを続け、結果的に5試合中ノーヒット・ノーラン3回、被安打2という伝説的な数字を残して自身2度目の甲子園に乗り込むことになる。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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