阪神・岡田彰布監督と吉田義男監督の共通点を掛布雅之が語る「守り重視」と「起用法」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

【ひとつ前の監督、安藤統男氏の功績】

――責任感が生まれる一方で、重圧はすごかったでしょうね。

掛布 責任感はものすごく感じていましたし、1985年は一番しんどいシーズンでした。でも、吉田監督が選手たちに任せてくれたおかげでリーグ優勝・日本一を達成することができましたし、すばらしいチームメイトがいたからこそ乗り越えられたと思います。

 ただ、1985年のリーグ優勝・日本一の土台になったという意味では、それまで阪神の監督を務められていた安藤統男監督(1982年~1984年)がやってこられた野球も忘れてはいけないと思っているんです。安藤監督は中長期的なチーム作りを考えていて、ランディ(・バース)を連れてきたのも安藤監督ですし、おそらく1985年や1986年頃に優勝を狙えるようなビジョンを描いていたと思います。

――安藤監督と吉田監督の野球の違いは?

掛布 安藤監督の野球は本当にオーソドックスで、吉田監督がやる野球と似ています。吉田監督のもとでコーチをやられていましたが、現役の時も一緒にやられているわけですから、その影響もあるのかもしれません。なので、安藤監督から吉田監督に代わられた時に「野球が変わった」という感覚はありませんでした。

 安藤監督が土台作りから始め、吉田監督が1985年に仕上げたということですね。一番残念なのは、1986年に連覇ができなかったことです。当時は"勝てるチーム"でしたからね。

――掛布さんが死球による右手首骨折で、シーズン序盤に離脱したことが響きましたね。
 
掛布 春先に自分が骨折したこともそうですが、エース級の存在だった池田親興が肩の故障で長期離脱したことも大きな要因だったと思います。それと、前年の課題だったピッチャー陣の補強もほとんどできないままでしたから......。1986年は、吉田監督も悔いが残るシーズンだったと思います。

(後編:「バックスクリーン3連発」、阪神を日本一に導いた「走塁」と「犠打」をを振り返る>>)

【プロフィール】
掛布雅之(かけふ・まさゆき)

1955年5月9日、千葉県生まれ。習志野高校を卒業後、1974年にドラフト6位で阪神に入団。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場などの成績を残した。球団初の日本一になった1985年は不動の四番打者として活躍。1988年に現役を引退した後は、阪神のGM付育成&打撃コーディネーター、2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー、HANSHIN LEGEND TELLERなどを歴任。野球解説者や評論家、YouTubeなど活躍の場を広げている。

プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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