「短命で終わってもいい」 石毛宏典が「黄金時代の最強の年」と語る西武を支えた渡辺智男は投球フォームにこだわっていた (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

【投げ方について、石毛に語った決意】

――プロ3年目まで目覚ましい活躍を見せた一方、その後は肘や腰などの故障に泣かされました。

石毛 私はピッチャーではないので感覚的な印象になってしまうのですが、智男が入団した時から投げ方が気になっていたんです。腕に力を入れて担ぎ上げるようにして投げるので、「肩や肘に負担がかかってしまうんじゃないか」と見ていました。

 一度、本人に「投げ方を変えてみたらどうだ」と提案してみたことがあるんです。ピッチャーの場合はわかりませんが、野手の場合は、打てなくなったらバッティングフォームを変えることがよくあるので。

――渡辺さんの反応はいかがでしたか?

石毛 「僕はこの投げ方でいいんです。短命で終わってもいいんです」って言っていましたね。智男の投げる真っすぐの伸びはものすごかったですが、"諸刃の剣"というか、
あの投げ方だから投げられていたのかもしれません。いずれにせよ、本人はそんな覚悟で投げていたということですね。

――諸刃の剣というと、伊藤智仁さん(元ヤクルト)の曲がりの大きい高速スライダーを思い出します。伊藤さんはルーキーイヤー(1993年)前半の活躍が衝撃的でしたが、肘の故障で7月に戦線を離脱。シーズン中は復帰しませんでしたが、同年の西武との日本シリーズに「ひょっとしたら出てくるんじゃないか?」と石毛さんは警戒していたとのことですね。

石毛 自分がそう言ったのは、おそらく日本ハムとのプレーオフの件(※)があったからだと思います。骨折して「登板はないだろう」と思っていた工藤幹夫が、プレーオフ第1戦で先発してきたんです。試合には勝ったのですが、シーズン中と同じように完ぺきに抑えられてしまいました。

 結局、伊藤は日本シリーズに出てくることはありませんでしたが、ヤクルトは野村克也監督でしたし、「奇襲を仕掛けてくるんじゃないか」という警戒心は持っていました。伊藤のスライダーは「ベースの端から端まで曲がる」と言われていましたからね。

(※)1982年、前期優勝の西武と後期優勝の日本ハムがプレーオフで対戦(1973年から1982年まで、パ・リーグはシーズンを65試合ずつの前期・後期に分け、それぞれの優勝チームがプレーオフで年度優勝を争った)。同年にリーグ最多の20勝を挙げた日本ハムのエース・工藤は、9月8日に右手小指の付け根を骨折。プレーオフでの登板はないと見られていたが、10月9日のプレーオフで先発登板した。

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