江川卓「怪物伝説」の始まり 作新学院入学直後に竹バットで柵越え連発 「中学を出たての1年生があそこまで飛ばせるのは...」 (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 今から50年ほど前の1973年、耳の大きなひとりの少年が日本中を席巻していた。甲子園では、バットに当たるだけでスタンドが揺れ、三振の山をバッタバッタと築き、夏の甲子園ではテレビ中継の消費電力がパンクして停電になる恐れがあるため、関西電力が各企業に節電を呼びかけたという伝説を持つ。

"江川伝説"は、高校3年春のセンバツ甲子園から始まったと思われがちだが、作新学院に入学したばかりの1年夏からすでに伝説は始まっていた。当時3年生でサードを守っていた大橋弘幸は、江川の入部当時の様子を語ってくれた。

「中学から"小山の怪童"として鳴らし、入部したての頃は身長180センチ以上のヒョロヒョロ体型でしたが、ケツだけはでかかった。作新のグラウンドは当時の神宮球場をまねてつくったので、両翼100メートル、センターは122メートルもあったんです。4月上旬、監督の命令で江川がフリーバッティングに参加したんです。そしたら、我々がいくら打ってもフェンスを越えないのに、あいつだけが越えちゃう。しかも竹バットで、ですよ」

 金属バットがまだない時代、竹バットは材質的に安価なため練習用バットとして使用されていた。反発力が少ないため芯を外すと、ものすごい衝撃が手に伝わる。とくに冬場の衝撃度といったら、手がちぎれるほどの激痛が襲う。

「中学を出たての1年生があそこまで飛ばせるのは人並み外れた背筋力だと、今となっては思いますね。その背筋力が投手として、あの速球を生み出したんでしょう」

 大橋は呆れ顔で呟く。江川は、最初は投手ではなく打者として周りに衝撃を与えたのだった。バッターボックスの江川の眼は爛々と輝きが増し、フリーバッティングでポンポン柵越えを放った。まだ怪物として覚醒する前のことである。

【栃木県史上初の完全試合】

 公式戦デビューはすぐに訪れた。

 第53回全国高校野球大会栃木県予選大会5日目の昭和46年7月18日、2回戦の足尾戦で作新が3回までに9対0と大量リードし、4回から江川が満を持して登板。8回までの打者15人をパーフェクト、奪三振7という圧巻のデビューを飾る。

2 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る