最多勝、トレード、人的補償、戦力外...藤井秀悟が振り返る波乱のプロ野球人生 「もっと古田さんから勉強しておけばよかった」 (4ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── ただ同年8月に左ヒジを痛めました。

藤井 手術も視野に入れたのですが、なんとか回復しました。自分の調子もよかったし、チームのためにと思って、腕の疲れはありましたが登板していました。ただ、いま考えれば休養すべきだったかなと後悔しています。翌年は一軍登板のチャンスをもらえず、現役引退となりました。

【悔しかった3度の移籍】

── 現役引退の37歳まで、通算83勝、1064奪三振の記録をどう思いますか。

藤井 プロ入り当初は球種も少なくてストレートで押していましたが、2003年に左ヒジを手術してからは変化球を覚えて、コースを突く投球スタイルにチェンジしました。通算200勝する投手もいれば、1勝もできずにユニフォームを脱ぐ選手もいます。上を見ても、下を見てもキリはないのですが、83個の勝ち星を積み重ねることができたのはよかったと思います。

── 現役15年間で印象に残っている試合やシーンはありますか。

藤井 プロ入り1年目の2000年4月29日の巨人戦、リリーフして味方のサヨナラ勝ちでプロ初勝利を挙げたことは思い出に残っています。あとは、ヤクルトと日本ハムで優勝に貢献できたことです。

── 悔しかったことは何ですか?

藤井 ヤクルト時代に最多勝に導いてくれた古田さんの兼任監督時代、胴上げをできなかったことです。最多勝を挙げ、優勝した2001年は古田さんのミットに思いきり投げ込むだけで、投球術や配球に関してあまり深く考えていませんでした。12歳上の古田さんになかなか自分から質問しづらくて......他球団に移籍してから「もっと古田さんから勉強しておけばよかった」と思いました。

── 引退を決断された時、どなたかに話をしましたか。

藤井 現役続行を希望するなかでの引退となったので、セレモニー的なものはありませんでしたが、マサ(石川雅規)が労いの言葉をかけてくれました。それで僕は「引退するけど、マサは1年でも長く現役を続けてくれ」と。マサは僕より2歳下で、大学選手権の決勝で投げ合って以来の間柄です。ヤクルト入団後にキャンプで同部屋だったこともあり、以来、同じ左投手として悩みなど打ち明けてくれました。いまだに連絡を取りあっていますが、通算200勝に向けて頑張ってほしいですね。

── あらためてプロ野球人生を振り返って、どんな思いがありますか。

藤井 3度も移籍して、当時はショックを受けたこともありましたが、いま思えばいろいろな経験ができて、プラスになったと思います。

後編につづく>>


藤井秀悟(ふじい・しゅうご)/1977年5月12日、愛媛県生まれ。今治西高から早稲田大を経て、99年ドラフト2位でヤクルトに入団。2年目に14勝を挙げ、最多勝を獲得。チームのリーグ制覇、日本一にも貢献し、ベストナインにも選出された。08年にトレードで日本ハムに、10年にはFAで巨人に移籍。さらに、12年にはFA移籍した村田修一の人的補償としてDeNAに入団。13年は開幕投手を務めるも、翌年は登板機会がなく戦力外通告を受ける。トライアウトを受けるもオファーがなく、現役引退。その後は巨人、DeNAでバッティングピッチャーを務め、22年から関西独立リーグの06BULLS(現・大阪ゼロロクブルズ)のGM補佐兼投手コーチに就任。23年から同チームの監督に就任

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