最多勝、トレード、人的補償、戦力外...藤井秀悟が振り返る波乱のプロ野球人生 「もっと古田さんから勉強しておけばよかった」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── それにしても日本シリーズでの好投は、巨人へのアピールになったのではないですか。

藤井 ヤクルト時代の2年目も、当初はリリーフ要員だったのに、巨人とのオープン戦で好投して先発ローテーションに滑り込み、結果、最多勝を獲得しました。その時々の分岐点で結果を出せたことが、僕がプロの世界で生き残ってこられた要因かなと思います。

【ハワイで自主トレ中にまさかの連絡】

── 巨人は2009年まで原辰徳監督のもとリーグ3連覇と選手層が厚いなか、移籍1年目に7勝を挙げました。巨人にFA移籍して結果を出せない選手が多いなか、まずまずの成績でした。

藤井 当時の巨人は内海哲也、東野峻、阿部慎之助、坂本勇人らがチームの中心でした。2009年まで3連覇でしたが、僕がいた2010年からの2年間はともに3位、そして2012年からまた3連覇......在籍中に優勝できなかったのは残念でしたね。

── 2011年はローテーションに入れず未勝利でした。

藤井 その年のオフ、横浜(現・DeNA)の村田修一がFAで巨人への移籍が決まりました。年末年始、僕は自主トレでハワイにいたのですが、非通知の携帯電話が鳴り、出てみると球団からでした。「明日、戻ってきてほしい」と。「人的補償、もしかしたらオレ?」って思っていたら、本当にそうでした。前回の"トレード拒否"と言われた教訓から、今度は予約していたグラウンドや宿をすべてキャンセルし、すぐに帰国しました。驚きと寂しさはありましたが、2011年の登板がわずか1試合だったことを思えば、「DeNAでチャンスを生かそう」と気持ちを入れ替えました。

── 背番号は、巨人での「99」からDeNAでは「00」。再スタートの意味も込められているのかなと感じました。

藤井 移籍1年目、中畑清監督のもと"新生・DeNA"は、まだ発展途上のチームでした。確固たる先発投手は三浦大輔さんぐらい。2012年から最下位、5位、5位と低迷しました。12年は何度か連敗ストッパーとなり7勝。13年は自身2度目の開幕投手を務め、4月に11年ぶりの完投勝利、7月には107試合ぶりの完封勝利を挙げました。日本ハム、巨人では5回ぐらいまで投げて交代することが多かったので、投げさせてもらえて、まだまだやれることを証明できてうれしかったです。

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