斎藤佑樹のプロ3年目、試行錯誤のなか巡ってきた一軍登板 復活への課題を見つけた中嶋聡のアドバイス (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta

 左足をドンッと着地する時、身体全体がブレーキとなって一瞬、止まります。その時、腕がしなって、腕が振られて、ボールを指先で切る。その時にはつま先から神経の信号が順に伝わって、パチンと指にかからなきゃいけないんです。その連動が僕はすごく下手でした。

 たぶん、高校の時にはそれができていたんだと思います。身体が元気な頃の感覚が残っていて、「高校の時はこんな感じで投げていたよな」とつい考えてしまいました。でも、ケガをしてからの自分はあの頃の自分じゃないんです。元に戻そうとするんじゃなくて、新しい自分をつくらなきゃいけなかった。そうやって腹を括るのに時間がかかってしまったというところに悔いはあります。本当はボールをここまで引っ張ってこられるはずなのに、肩が引っ張らせてくれない、だから指にかけられないんだ、なんて考えてしまっていました。

 それでもプロ3年目、1試合でも一軍で投げられたことは、その後に生きたと思っています。それは、まだこんなんじゃダメだと思えたことももちろんですが、スピード以前にキレもコントロールもまだまだなんだと思い知らされたことが大きかったと思います。

 ケガをして、ボールが速くなくなったと嘆く前に、磨けるところはいくらでもあった。キレとコントロール、変化球で抑えているピッチャーはいくらでもいるわけだし、僕がスコスコ打たれていたのはスピードだけの問題じゃない。思うように球速が出ない真っすぐでも、抑えて初めてピッチャーはスピードじゃないと言えるわけで、もっと指にかかるボールを増やして、キレもコントロールも変化球もよくしろよと、自分自身に言い聞かせようとしていました。

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 一度だけの一軍のマウンドで、斎藤は力を入れずに強いボールを投げるという着地点をあらためて確認した。10月は宮崎でのフェニックス・リーグで投げて、プロ4年目に備える。そして2014年の名護キャンプ、最初の紅白戦で斎藤は先発ピッチャーに指名された。投げ合う相手はプロ2年目を迎える大谷翔平だった。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している

プロフィール

  • 石田雄太

    石田雄太 (いしだゆうた)

    1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。

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