王貞治が引退した巨人に原辰徳がもたらしたもの 篠塚和典は「待望の中心打者、新たな4番候補だった」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――新たな4番候補として、篠塚さんも期待されていた?

篠塚 そうですね。4番として育っていってほしいなと。前後は他の打者たちが支えていく気持ちでいましたし、外国人助っ人も入ってくれれば、打線に厚みが出て強いチームが作れるんじゃないかと思っていました。

――原さんは長く4番を務めましたが、その姿をどう見ていましたか?

篠塚 どこかを故障している時などは不安も見えましたが、コンディションに問題がなくてある程度チームが勝っている時は、自信を持って4番というポジションを担っていたと思います。何年か経った後には風格のようなものも感じましたよ。

――故障といえば、原さんは1986年に、広島の津田恒実投手の真っ直ぐをファウルにした際、左手の有鉤骨(ゆうこうこつ)を骨折。あの骨折が以降のバッティングに影響を与えたとも言われていますが、篠塚さんもバッティングの変化を感じましたか?

篠塚 左手の有鉤骨は、右バッターの彼にとってバットのグリップエンドが当たる位置の骨です。なので、有鉤骨が気になるとなかなか思い切って振れません。原も復帰した後は、恐る恐るスイングしているように見えました。強く振れるようになったのは、ある程度時間が経ってからでしたね。

(後編:「シノさん、しっかり伝えてよ!」監督・原辰徳の厳しさ>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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