王貞治が引退した巨人に原辰徳がもたらしたもの 篠塚和典は「待望の中心打者、新たな4番候補だった」 (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

【「巨人の4番」のプレッシャーを背負い続けた原】

――「巨人の4番」を担っていた原さんのプレッシャーは計り知れないものがあったと思います。特にチャンスで打てなかった時の批判のされ方は、傍から見てもキツそうでした。

篠塚 厳しいポジションだし、川上哲治さんやミスター(長嶋茂雄)など偉大な先人が務めてきたこともあって、どうしても比較されてしまいます。打てなかった時はメディアにもいろいろ書かれてしまいますからね。つらい場所だったんじゃないかなと。それでも原はそれなりの成績を残しましたし、4番として十分な働きをしていたと思いますよ。

――生涯得点圏打率は.286ながら、世間からは「チャンスに弱い」と言われることもあったと思います。篠塚さんの目から見てどうでしたか?

篠塚 確かにチャンスでの弱さをよく指摘されていましたが、あまりそういう印象はないんです。スランプに入ると長いほうでしたけどね。そこからいかに脱出するかがバッターの一番難しくて悩むところで、脱出するためのコツもないですが、そういう時はもがいていましたよ。

 バッティングコーチとも積極的にコミュニケーションを取ったり、試行錯誤していた姿を覚えています。チームメイトも、原が近くでバッティング練習している時には、いい打球が飛んだ時などに「いいね、いいね!」などと言って盛り上げたりしていました。

――篠塚さんと原さんは、同じ時代に巨人の中心打者として長く活躍しましたが、「V9時代(1965年~1973年)」と比べられるプレッシャーも大きかったんじゃないでしょうか。

篠塚 V9の時のチーム成績がとてつもなくて、すごくプレッシャーを感じていました。その時にチームをけん引した先輩たちが徐々に引退していき、1980年には王貞治さんが引退。そこで「巨人のすごさ」がちょっと途切れてしまった感じがあります。それで監督のミスターが、その後の10年、15年と巨人を背負っていく選手たちを育てるということで、厳しい伊東キャンプ(1979年)を行ないました。

 選手たちは伊東キャンプの期間中、それまでの"強い巨人"を自分たちが担っていけるか、という不安を抱えながら毎日を過ごしていました。原が入団したのは伊東キャンプがあった年の翌年(1980年ドラフト1位)でしたね。

――原さんの入団はチームにとって大きかった?

篠塚 大きかったです。伊東キャンプの翌年は、自分も含めてキャンプに参加した選手たちがそこそこ活躍できて、そのタイミングで原が入ってきた。ミスター、王さんが抜けて長打を打てる中心打者が求められていましたし、他の選手たちの精神的にも、原が入ってきてくれたことはチームにとってものすごいプラスでしたね。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る