ルーキー原辰徳にセカンドを奪われた篠塚和典にミスターから電話「チャンスが来るから腐るなよ」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――再度スイッチを入れ直すことができた?

篠塚 そうですね。いつ来るかわからないチャンスに向けて準備しなければとミスターにも励まされ、思い直しました。逆に原のほうが嫌だったんじゃないかな。高校、大学とずっとサードを守ってきていたけど、サードには中畑清さんがいたからセカンドを守ることになって。それと、自分も原も寮にいたので、自分が運転する車に原を乗せて一緒に練習グラウンドに行ったりもしていましたし、原のほうは気まずい気持ちがあったかもしれません。

 自分のほうは、最初こそ「くそっ」と思いましたが、すぐに気持ちを切り替えることができました。練習でセカンドのポジションを原と一緒に守りながら、技術面のことなどいろいろアドバイスしたりもしていましたから。

――篠塚さんにとっては、セカンドのレギュラーを確固たるものにするため、並々ならぬ気持ちで臨んだシーズンだったはずですし、ルーキーの原さんにポジションを奪われる形になって心中穏やかではなかったと思います。

篠塚 開幕前のベロビーチ(米フロリダ州)のキャンプでは、第3クールまで原はセカンドの練習をしていなかったんです。それで最終クールの時にセカンドに来て練習をし始めました。

 その後、宮崎キャンプの時にセカンドのスタメンで練習試合に出たので、「あぁ、ベロビーチの最終クールで、原にセカンドの練習をさせたっていうのはそういうことか」と。新聞でも「今年は原をセカンドで起用する」みたいなことが書かれていて......。だけど、「冗談じゃない」という思いで過ごしたのはその日だけですよ。

 次の日からはスパっと切り替えましたね。首脳陣の中で開幕は「セカンド・原」でいくと決めていたのかもしれませんが、腐らずにポジション争いをしていこうという気持ちになっていましたから。

――ポジション争いをする相手と一緒に、車で練習グラウンドへ向かう雰囲気はピリピリしていそうですね。

篠塚 でも、その時は車の話をしたり、野球以外の内容の会話が多かったですから。いつだったか、原がポルシェを買った時には、僕の家まで見せに来たこともありましたね。どういう気持ちだったかはわかりませんが、会話は普通にできていましたよ。

(中編:王貞治が引退した巨人に原辰徳がもたらしたもの 「待望の中心打者、新たな4番候補だった」>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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