「落合博満監督と驚くほど似たような指導を受けた」江藤慎一が最後にプロに送り出した岡本真也がその人柄と特別な思いを語る (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 江藤は最終的に野球がアムウェイのネットワークビジネスの広告塔にされることを嫌い、スポンサー契約を外すことを決断し、チームは解散した。岡本はヤマハに移籍した。名門ヤマハは結果的に一年待ってくれていたことになるが、移籍金はもう出ず、経費で認められたのは引っ越しで使った高速料金だけだった。

 ヤマハで研鑽を積んだ岡本は2000年にドラフト4位で中日に入団する。2月にキャンプインすると江藤は大西と岡本、ヤオハン時代二人の教え子を訪ねにホテルに現れた。

「ランチの時間に来られたんですけど、メシ食おうと言っておやじは、バーッとビールを飲むんです。けど、僕は1年目でビールはさすがに飲めないじゃないですか。大西さんも遠慮していいですって。昼間にホテルの1階の選手みんなが通るところで、いきなりビール大ジョッキですから(笑)。星野(仙一)監督の時代ですけど、ああ中日はやっぱりこの人のホームなんだなと思いました」

 江藤の訃報を岡本はオープン戦の最中に聞いた。2008年、西武に移籍した一年目だった。

「病気で倒れられたときも大西さんから聞いていて見舞いに行きたかったんですけど、誰とも会わないって、おやじが言っていると。自分の弱っている姿を見せたくないから病院には来るなと。それで行けなかったんです。葬儀は行きました。そこで大西さんに『岡本、俺らは、まだまだプロでやっていかなあかんのや。だからそんなふうに強がりを言っていたおやじの言葉を尊重して死に顔は敢えて見んとこ』って言われたんです」

 弱っているところを見せたくないと言っていた江藤へのリスペクトから、岡本も大西も棺の中の顔にお別れは言っていない。
 
 今、岡本はこう回顧する。「プロに入ってからもいろんな指導者の方に会いましたけど、二軍の熱血コーチでもああいう人がいたかなって、思います。稀有な人ですよ。僕は内川(聖一)がソフトバンクで首位打者を取りかけたときに『止めてくれ、打たないでくれ、おやじの記録(セ・パ両リーグでの首位打者)は唯一のものとしといてくれ』と念じていました」
 
 江藤の大きなこだわりに岡本は気がついていた。

「おやじが最初に作ったのが、野球体育学校。学校っていうだけあって、講義の時間は絶対おやじが作っていました。技術論や野球論をみっちりやりました。それからチームがヤオハンになってアムウェイになっても、『天城ベースボールスクール』っていう墨で記した
木製の手作り感満載の看板は、寮の入り口から絶対外さなかったですね」

――そこはこだわってたんでしょうね。

「はい。チームの母体やスポンサーは変わってもここは天城ベースボールスクール、学校だっていうポリシーですね」

 最後に岡本から逆質問を受けた。

「何でおやじが静岡の天城で野球学校を開いたか、知ってます?」

――それは知らないです。

「日本一の富士山が見えるんですよ。日本一の富士山の下で日本一になるって決めたらしいんです。ちょっと山を登れば、富士山が見えますので」

――お墓もあそこの近くに入られたのも、そういうことですかね。

「そうですね。僕、まだ1回しか、墓参りに行けてないんですけど」

 プレーヤーズファーストの精神、根性論を排した育成、体罰の否定、女子へ野球の普及...「早すぎたスラッガー」江藤は日本一の山が見える天城の地で静かに眠っている。

(おわり)

\連載をまとめたものが1冊の本になりました/
『江藤慎一とその時代 早すぎたスラッガー』
木村元彦著 2023年3月22日(水)発売 1760円 ぴあ

プロフィール

  • 木村元彦

    木村元彦 (きむら・ゆきひこ)

    ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。

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