プリンスホテル最後の指揮官が語った、初の都市対抗優勝から衝撃の廃部までの顛末 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

【母校の監督に就任し3度の甲子園出場】

 大会後、足立は初めて全日本に選ばれ、アジア選手権大会に出場。翌年も全日本入りして国際大会でプレーした。プロからの誘いもあったなか、野球で海を渡り、世界の選手と戦うことに魅力を感じ、社会人で生きる道を選択。石山の突然の辞任によって94年限りで現役を引退、翌年から監督に就任すると、96年、97年にチームを都市対抗に導く。だが、長くは続かなかった。

 2000年4月、プリンスホテル野球部の廃部が発表された。<西武グループの西武ライオンズとプリンスホテルを一本化し、ライオンズを支援して野球界に貢献していきたい>というのが理由だった。ほかの企業チームと同様、バブル崩壊から始まった長期不況の影響もあったが、もうひとつ、五輪野球競技のプロ選手解禁が野球部存続の意味を薄れさせていた。

「廃部だなんて、まさか......と思いました。最後、私が幕を閉じさせてもらったんですけれど、なにかパッと咲いて、すごくでっかく咲いただけに寂しかったですね。ただ、私自身、普通は経験できないような環境で野球をできて、よかったと思っています。後々の人生に生きましたから」

 廃部後は本社の人事部に配属され、面接・採用に始まり、最後はリストラ担当までした足立だったが、2011年8月、母校の松商学園高に請われて監督に就任。22年の8月まで務め、15年の春、17年、21年の夏に甲子園出場を果たした。15年のセンバツ大会出場決定直後、足立のもとに、プリンスホテル取締役で応援部の元主将だった先輩から連絡があった。

「松商がプリンスの応援歌を譲り受けて、チアガールの振り付けも教えてもらったんです。実際、甲子園のスタンドで披露されたんですが、試合後、アマチュア担当の記者の方が『あれ、プリンスの応援歌ですよね?』と。その時点で廃部から15年も経っていたのに......。『ああ、それだけの存在だったんだなあ、プリンスホテルというのは』って、あらためて、感慨深かったです」

 母校を離れたあとも、足立は求められた場所で高校生の指導を続けている。とくに選手との接し方を大事にしながら、いつかまた勝負の世界に、という熱い思いは消えていない。

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