元巨人の名手・河埜和正が今も悔やむ阪神戦の「世紀の落球」→「バックスクリーン3連発」 ...「自分は守備で一軍に上がった人間だけに」 (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

── さらに77年も優勝し、連覇を果たされます。

河埜 77年は、王さんがハンク・アーロンの記録を破る通算756号の世界記録を樹立するなど、記憶に残るシーズンになりました。個人的には、77年は打率.294をマークし、ベストナインに選ばれ、日本シリーズでは敢闘賞に輝くなど、自信がついた1年でしたね。

── しかし78年は2位、79年は5位に終わり、チーム再建のために「地獄の伊東キャンプ」が敢行されたわけですね。

河埜 私が27歳で最年長でした。投手陣は江川卓、西本聖......、野手陣は原辰徳、中畑清、篠塚利夫(現・和典)、山倉和博ら総勢18名が秋季キャンプに挑みました。まあ、大変でしたね。日中は打撃と守備。暗くなったら坂道ランニング。夕食のあとはバットスイング。それが3週間続いたのです。「来年はオープン戦から全部勝つつもりでやるぞ」という意気込みでした。あの伊東キャンプが、その後のチームの礎になったのは間違いないですね。

── 当時の長嶋監督は、投手に対して「逃げの投球をするな!」と、ベンチ裏で気合いを入れることもあったと聞きます。

河埜 とても熱い方でしたね。火鉢を蹴飛ばして骨折したこともありました。

【叶わなかった東京ドームでのプレー】

── その長嶋監督ですが、80年も優勝を逃し(3位)、志半ばにして退陣となりました。そして81年、藤田元司新監督のもと、巨人は8年ぶりの日本一に輝きます。

河埜 藤田さんは紳士な方ですが、「瞬間湯沸かし器」の異名があるなど、激しさも兼ね備えていました。81年はおもに2番を任されました。今はエンゼルスの大谷翔平選手に代表されるように、2番はホームラン打者が座ることがありますが、当時は完全に"つなぎ役"でした。1番を打つ松本匡史の盗塁を助け、そしてバントで送る。

── 81年は全130試合に出場し、打率.264、16本塁打、27盗塁、21犠打(リーグトップ)の成績でした。

河埜 バントがうまくなるにつれ、打撃力が向上しました。「ボールをよく見る」ということが影響したのかもしれないですね。81年はV9戦士のほとんどが引退されていて、自分が若手に声をかけなければいけない立場になっていました。その私が"つなぎ役"としてプレーし、篠塚、原、中畑のクリーンアップがランナーを還してくれるとホッとしましたね。

 思えば、土井正三さんも高田繁さんも「自分の犠牲バントから、ON(王貞治、長嶋茂雄)が打って得点に結びつくのは最高の仕事だよ」と言っていたのを思い出します。自分の仕事をきちんとこなしていれば、見ている人は見ていてくれる。V9の川上(哲治)監督時代からの「フォア・ザ・チーム」の系譜ですよね。

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