甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。高橋直樹が語った因縁のライバル (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「うちの母親は身長が170センチ近くあって、大きかったんです。それで高校ではバレーボールをやって、東京に出て大学に通っていたとき、親父の後輩みたいな人が早稲田の野球部にいて、その人に早慶戦に誘われたと。

 当時の早慶戦といったら、神宮のスタンド全体が真っ白になりますからね。早稲田と慶應しか、こんな満杯の球場で試合はできないんだ、すごいなあ、とあこがれたんでしょう。観ているうちに、『私の子どもが男の子だったら...』と誓ったということです」

 今の時代なら、結婚後にそのように思う女性はいるかもしれない。が、これは戦前、今から80年ほど前の、独身女性の話......。と同時に、プロ野球スカウトの間で、「母親の体格がいいと男の子の体格もいい」と言われてきた話を思い出す。

「あんたには私の体力と能力をあげてるんだから、絶対、勝てるからって、高校のときに言われたことあるんです。実際、小学生のときから僕に野球やらせたのは母親です」

 文武両道を超えた高度な道のように感じるが、高校進学に当たって、高橋さんは津久見高・普通科の入試にトップの成績で合格している。中学で投手として活躍し、同校野球部から声をかけられてもいたのだが、学業で最高の結果を出していた。

「僕は頭がよかったんですよ、はっきり言って。先生が入学試験の答案用紙を下から見ていたら、『高橋のがない』と。野球部はだいたい下だからと見ていったら『ない』。どうしたんだ? と思ったら、いちばん上にあった。

 それで野球部でピッチャーとしては、最初はずっと上から投げてたんですが、1年が終わる頃かな、『今のままではね、お前にエース番号をやれない。ちょっと腕を下げたらどうだ?』って監督に言われたんです」

 当時監督の小嶋仁八郎(こじま にはちろう)は中央大、社会人の八幡製鉄で投手として活躍し、西鉄の前身球団=西日本パイレーツに所属した時期もあった(当時はプロ・アマ規定がなかった)。甲子園では67年の春、72年の夏、津久見高を優勝に導いた名将だが、選手に「ああしろ、こうしろ」と言わず、ヒントを与えて自分で考えさせる指導をしていたという。

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