堤義明の鶴の一声でプリンスホテル残留「全日本の4番」中島輝士の日ハム入団の真相 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 実績こそ少ない中島だが、チームの中心選手として都市対抗、全日本で好結果を出せば、自ずとその先が見えてくる。81年に入社して7年目、25歳になっていた。プロに入るとしたら、ギリギリと見られる年齢だ。

「全日本に入った時点でね、ある球団から『オリンピックは金にならないから、プロに来い』と、そういう話があると知りました。僕はもう行く気満々です。そしたら、山本英一郎さんに呼ばれてね。キューバが大好きな方で、カストロ首相と何度も面談している間柄で」

【堤義明の鶴の一声でプリンスに残留】

 山本は1919年生まれで当時68歳。戦前から慶應義塾大、社会人の鐘淵紡績(鐘紡)で外野手としてプレーし、戦後は審判を務めた。その後、世界のアマ球界との交流を進め、84年ロサンゼルス五輪での野球の公開競技入りに尽力。日本は88年ソウル五輪出場を決めていたが、山本としては、4番・中島がいない全日本チームは考えられなかった。

「新宿プリンスホテルで2カ月ぐらい、毎週、山本さんとマンツーマンで話しました。僕を引き留めるための交渉というか、説得され続けたんです。そのうちまた全日本に選ばれて、10月にキューバで開催されるインターコンチネンタルカップに行く、行かない、という話になって」

 野球部監督だった石山建一によれば、当時のプリンスホテル社長である山口弘毅は中島について「年齢的にプロに行かせないとかわいそうだ」と言っていたという。山本から「オリンピックの4番で中島くんを残してほしい」と要請されたが、山口は「行かせてやれ」とプロ入りを容認した。残る問題は、前社長でもある西武グループ総帥の堤義明がOKを出すかどうかだった。

「堤さんはJOCの会長まで務めた方です。最終的に山本さんが堤さんに話して、鶴の一声ですよ。『残れ』と。結局、キューバに行くことになって、翌年9月のソウルオリンピックまでずっと全日本の4番。それで僕、プロ入りが遅くなりました」

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