プロからも誘いがあった中尾孝義は、なぜ未知の社会人チーム・プリンスホテルへの入団を決めたのか (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 東京・渋谷区の会場は宿泊施設も完備。金曜日の夜に上京して2日間、勉強して日曜日の夜に地元へ帰る、という生活が9月から11月まで続いた。中尾以外の参加者は「怪物」と呼ばれた作新学院高の江川卓(元巨人)、静岡高の植松精一(元阪神)、水野彰夫、永島滋之、大府高の森川誠、のちにプリンスで同僚となる丸子実高(現・丸子修学館高)の堀場秀孝(元広島ほか)だった。

「慶應の人から『絶対、入れる』って言われてたんですよ。もちろん、それでも勉強はしていました。それが受験の2〜3日前、教授のなかに反対する人が出てきてダメになったらしいです。結局、合格したのは永島だけで、江川と水野、植松は法政に行って、僕はやっぱり慶應に入りたいから、親父に『一浪させてくれ』と頼み込んだ。『どうしても入りたいんだ』って」

 学業優秀だった中尾は、「野球学校」ではない滝川高を選択していた。同校は300勝投手の別所毅彦(元南海ほか)、本塁打王5度の青田昇(元巨人ほか)を輩出した名門ながら、進学もできるのが魅力だった。身長173センチと小柄で、もしも故障で野球を断念した場合、学力での大学進学を考えていた。「浪人してでも慶大に」という思いも、スポーツ推薦で入学する感覚とは大きく違う。

【専修大では4度のベストナイン】

 しかし1年後、75年の再受験も不合格となった中尾は、以前から滝川高とつながりのある専修大に入学。こうして一浪した結果、プリンス野球部が結成される78年、中尾が大学4年生になる巡り合わせになったわけだ。そして専修大では、1年春から東都大学のリーグ戦で頭角を表す。

「1年生が参加する新人練習で、足の速い選手の盗塁練習にキャッチャーとして入ったんです。そしたら全部アウトにしたもんだから、3、4年生の全体練習に入れて。オープン戦でもけっこう打ったからか、ベンチ入りさせてもらいました」

 リーグ戦最初のカード、国士舘大との第2戦、1対3で負けていた9回。一死一塁の場面で中尾は代打で起用され、これが初出場だった。次打者の主将に「ちょっと、同点ホームラン打ってきますよ」と予告したというから、メンタル面も新人離れしていたようだ。

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