石毛宏典らプロを多数輩出 今こそ知ってほしい社会人野球の名門・プリンスホテルの歴史 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 現役引退とともに退社した1974年。石井の跡を継いで石山が31歳で早稲田大の監督に就任する際、野球部の部長・樫山欽四郎を介して堤との接点ができた。樫山にとって堤は早大の先輩に当たり、当時は西武グループ・国土計画の社長。早稲田大の監督交代の経緯を説明し、石山を国土計画の社員にすることを願い出ると堤は快諾。結果、同社から出向する形で石山は早大の監督となった。

「春と秋、六大学のリーグ戦が終わるたびに国土計画に行って、『優勝できました』『今回はこういう結果でした』と堤さんに報告していました。するとそのうち、堤さんが野球に興味を持ち始めましてね。ある時、『石山、おまえ、早稲田から帰ってきたらチームをつくれ』と言われたんです。それが、プリンスホテル野球部の始まりでした」

 堤はもともとスポーツを好み、国土計画、西武鉄道と2つのアイスホッケーチームを持ち、いずれも一流チームに仕上げている。スキーやスピードスケートを含め、ウインタースポーツの開拓者でありつつ、経営者としてプロ野球にも興味を抱き、東京・品川駅前に球場を造る計画を立てたこともあった。

 しかし、西武グループの創業者で衆議院議長も務めた父の堤康次郎は「野球にだけは手を出すな」と言い遺していた。その遺訓を息子は守り、球団買収には乗り出していなかった。それが76年、プリンスホテル社長に就任した年から状況が変わっていく。赤字経営に苦しむ大洋(現・DeNA)のオーナーに頼まれ、大洋球団の株を3億円で取得して経営に参加したのだ。

 さらに、川崎から横浜への本拠地移転にも堤は関わり、横浜スタジアムの建設資金のうち40億円を捻出。こうした動きから、将来的に西武が大洋を買収するのではないかと見られていたが、堤は球場建設の準備に取りかかる。同時に、プリンス社内で「企業スポーツを何かひとつやらせてくれ」という声が高まったこともあり、石山に「チームをつくれ」と命じたのだった。

「チームだけじゃないんです。『球場をつくれ』とも言われまして。実際には、球場を設計した建築家の先生にアイデアを進言したんですが、それが西武球場(現・ベルーナドーム)になるんです。ただ、その時はあくまでプリンスの本拠地として考えられていたのと、堤さんには、プロ野球のチームを呼んで試合を興行する構想がありました。要は、貸球場として建設したんです」

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る