ドラゴンズ黄金期を支えた名手・英智 落合博満に「お前ならあれくらいは捕らないと」と認められるまで「5年必要だった」 (3ページ目)

  • 栗田シメイ●取材・文 text by Kurita Shimei
  • photo by Sankei Visual

【落合流の選手の花の咲かせ方】

――具体的にチームの中で英智さんが求められていたことは、どういった役割だったと感じていましたか?

英智:ドラゴンズの勝ち方については、当時の選手たちは多かれ少なかれ体感として理解していました。当然ですが、選手や状況によって求められることは違った。例えば守備固めや代走、バントなどサブとして出場する時なんかは、ベンチメンバーはみんな試合の展開を読み、「次の回、お前あるぞ」と自分たちで考えて準備をしていた。ほぼ全員がそうでしたし、いい準備が出来ていないと試合に使ってもらえません。

 その予測はだいたい当たるんですが、時々びっくりするような采配もありました。ただ、僕らが理解できなくてもしっかり理由があって、そういう時は監督から後で説明があるんです。それを聞いて納得する、というような。

 だから常に頭をフル回転させていたし、準備が足りずに失敗すると後悔がすごく残るんです。あの時のチームはそれが当たり前だと感じていたし、ひとりひとりが役割を全うする中で、考えて野球をするという力が自然と身についていきました。

――「一芸に秀でた選手になれ」という言葉は落合野球の代名詞であり、英智さんもそれに当てはまる部分が多かったかと思います。

英智:「打てて、守れて、走れる」みたいな選手はもちろん理想で、みんながそこを目指すんですが、プロの世界でそれができるのはひと握り。それをサポートする選手がいないと、チームは機能しません。1軍の試合に出て、チームに貢献するためには、僕の場合はまずは守ること。ここを求められていたし、伸ばしてきた。今の子たちを見ていると、そういった適正を見極める前にいろんなことをやりすぎているのでは、と感じることもあります。

 落合さんはその選手が花を咲かせるために「どんな水のやり方をして土を肥やすか」「太陽の光はどれくらい必要か」ということを就任時に示してくれた面がある。まずはプロとして生き残るために専門分野を作ること。それができたら仮に打てなくても、日の目を浴びられるのではないか、という意欲が出てきた。目標が明確になったからこそ、練習に取り組む意識も変わったし、長くプロでやれたんだと思います。

――選手時代、最も印象に残っているのはどのシーズンでしたか。

英智:ひとつと言われると難しいんですが、日本一になった2007年ですね。あのシーズンは、レギュラーシーズンの出場機会は多かったですが秋に怪我をしてしまい、日本ハムとの日本シリーズには全く絡めなかった。チームの日本一はもちろん嬉しかったですが、個人的にはそこに貢献できない悔しさがすごくあって......。

 そういう意味では、落合さんの監督としてのラストシーズンとなった2011年も、チームが逆転優勝して日本シリーズに進む中、ソフトバンクの日本一を前に自分は何も出来なかった。不思議なもので僕の野球人生を振り返ると、そういった悔しい思い出の方が鮮明に覚えているんですよ(笑)。

(後編:福留孝介や荒木雅博らに感じていた「感覚の近さ」 今のドラゴンズが「変化していく上で必要」な期待の若手も語った>>)

【プロフィール】
英智(ひでのり)

1976年5月9日、岐阜県生まれ。県岐阜商から名城大に進み、1998年に中日からドラフト4位指名を受け入団。2004年にゴールデングラブ賞を獲得し、代走、守備固めなどでも活躍。2012年限りで現役を引退し、ドラゴンズ二軍の外野守備・走塁コーチに就任。その後も各カテゴリーのコーチとして後進を育てた。今年からは解説者として活躍している。

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