江藤慎一の晩年はスポンサー探しに奔走  所属選手の売り込みのため朝6時半にスカウトに電話をかけ続けた (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 江藤が企業チームを探すというのを信じて、選手は休業補償をもらい、アルバイトをしていた。1998年、アムウェイ・レッドソックスはそれでもエース岡本の活躍で静岡予選を勝ち抜き、盛岡で行なわれた「全日本クラブ野球選手権」で優勝を果たした。MVPは捕手の貝塚茂夫が獲得した。

 この時、女子選手の松本彩乃が決勝のウイニングボールを掴んでいたことを知る人は少ない。

 江藤は以前より、女子野球の普及にも注力をしていた。クラブチームに変わったことを前向きに捉えて、レッドソックスに女子選手も登録することを考えついた。スポンサー企業獲得に奔走する一方で、「沼津で女子野球をやりませんか」という新聞広告を打つと、全国から、10名以上の選手がテストを受けにやって来た。天城ドームで行なわれたセレクションの結果、このうちの4人を選手採用し、春先から試合に参加させていたのである。

 片岡安祐美が監督を務める茨城ゴールデンゴールズが誕生する前に男女混成のチームを江藤は作っていた(片岡が熊本商業で江藤の後輩にあたるところが、興味深い)。松本彩乃は女子野球部のある金沢学院大学のOGで技術のしっかりした選手だった。

 レッドソックスは江藤塾の流れを汲むチームとして天城ベースボールクラブ以来、2度目の「全日本クラブ野球選手権」優勝を果たした。しかし、ここまでであった。翌年から、パチンコホール業のマルハンがスポンサーにつく動きもあったが、これも立ち消えになった。江藤の奔走も空しく、チームは解散となった。

 夢見る慎ちゃんが、日本野球体育学校を創設してから、ちょうど15年が経っていた。江藤はその後、2001年に徳田虎雄が代表を務める自由連合から、参議院選挙に出馬するも落選している。

 そして、2003年に脳梗塞で倒れた。入院して、検査をすると肝臓にガンが見つかった。江藤は酒豪というイメージを持たれていたために、酒席の相手の期待に添うように無理に飲むことがあった。手術は成功したが、脳梗塞の合併症か、肺の動きが悪くなり、日に日に呼吸が苦しくなって意識不明に陥った。

 長女の孝子が駆けつけると、朦朧としていた。「パパ、大丈夫? 聞こえますか?」うわごとに耳を近づけると、「今の空振ったな」「次何回だ?」「今の日本の野球は遅れてるからな」とろれつが回らない口調で延々と野球のことをつぶやき続けていた。孝子は意識を遠くにいかせないために「そうですね、そのとおりですね」と、相づちを打ち続けた。

 ICUに入り、1週間こんこんと眠り続け、一時は危篤状態にも陥ったが、鍛え抜かれた体力はついに病魔を追い返した。肝臓がんも肺炎も克服してついには、4か月後に退院となった。

「大きな大漁船がやって来て、こっちに乗れと言われた」「そんな夢見て、乗ってたらやばかったね」そんな会話を孝子としていた。

 死地から脱し、リハビリを行なっていたのも束の間、1年も経たないうちに2回目の脳梗塞が襲ってきた。今度は重症であった。酷い再発は江藤の身体から自由と声を奪った。豪打を生み出す礎となった下半身も上腕部も動かなくなった。弟の省三によれば、寝たきりになりながらも意識は明確にあり、時には昔の写真を見て涙を流していたという。3年もの間、この過酷な闘病生活を続けたが、2008年2月28日に亡くなった。

(つづく)

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プロフィール

  • 木村元彦

    木村元彦 (きむら・ゆきひこ)

    ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。

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