タメぐち、生意気な巨人の堀内に怒り、逆転サヨナラ満塁弾を浴びせた男 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 奥の席を陣取って名刺交換を終えると、広野さんはバッグから書類を取り出して渡してくれた。〈プロフィール 広野功〉と記されたA4判の文書は、巨人時代の写真を配したベースボールカードがクリップで留めてあり、小学校名から始まる経歴が年表のように記載され、最近のアマチュア野球指導実績まで全4枚にわたって続いている。

 名刺を交換した野球人はこれまでにも何人かいたが、プロフィールを用意してくれた方は広野さんが初。ありがたい、と思うと同時に、この濃密で詳細な野球人生の記述に対し、取材を思い立ったきっかけはそぐわないかもしれない......。少し不安になって取材主旨を説明すると、広野さんは言った。

「ありがとうございます。ことあるごとに僕の名前を思い出してくれるんで。もう半世紀も前のことなんですけどね」

 感謝の言葉に恐縮しながら、半世紀以上前にさかのぼる。徳島に生まれ、徳島商高では2年時に春夏連続甲子園出場を果たした広野さんは、1962年、東京六大学リーグの慶應義塾大に進学。在学4年間で3度の優勝に貢献し、右投左打の強打者として通算8本塁打をマーク。これは当時、立教大の長嶋茂雄(元・巨人)に並ぶ六大学タイ記録だった。

「8本打ったときにマスコミが騒いでくれたんですけど、そのとき、65年の秋の慶應は早慶戦で負けて早稲田の優勝が決まった。はっきり言って落ち込んでるわけです。長嶋さんのことを聞かれても、僕はあんまり話したくない。おそらく、マスコミの印象を害するような対応をしたと思うんです。でも、それが真実の心境でした」

 すると最後の試合はキャプテンの江藤省三(元・巨人ほか)はじめ、4年生の仲間たちが新記録の9本を打てるように後押し。「チンケなヒットなんか打つな。三振かホームランでいいんじゃないか?」という話が出てきた。

「それで全部、狙いにいきましたけど、3打席連続で三振。で、4打席目、真ん中に甘い球がきてとらえたら、カーンと右中間に上がった。一瞬、入ると思ったら、フェンスの頭に当たって三塁打になった。これが大学の最終打席で、その入らなかった悔しさが残りました」

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