野村克也の専属マネージャーが明かす「ノムさんの仕事と素顔」。最後まで野球を愛し、「来た球を打つだけではダメだ」と球界の衰退を憂いていた (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

 試合の解説はともかく、新聞、雑誌、書籍の仕事は、当日何の取材なのか、監督自身は把握していなかったと思います。各インタビュアーが似たような質問をするのに伴って、似たような答えをする時もありました。監督が直接修正を入れた校正用紙の文字を見て、「野村監督が直筆で修正してくれた。しかも達筆だ」と喜んでいる編集者の方もいましたね。

── 有名な言葉に「俺は野に咲く月見草」という言葉があります。実際のところ、王貞治さん、長嶋茂雄さんの"ON"との交流はいかがだったのでしょうか。

小島 「現役時代は王貞治がライバル、監督時代は長嶋と戦った」と言っていました。とくに90年代のヤクルト対巨人戦は、長嶋茂雄監督との「因縁対決」と言われていました。しかし、本当は長嶋さんを好きだというか、ずっと気になっていたようですね。

 長嶋さんは立教大からプロに進む際、当初は南海(現ソフトバンク)入りが濃厚でした。それが一転、巨人入りになって、国鉄(現ヤクルト)とのデビュー戦で金田正一さんに4打席4三振。その当時のことを語ったことがありました。

── どんなことを言っておられたのですか。

小島 「あの時は、せっかく手に入れた4番の座を、同い年の新人に奪われると思った。そして開幕デビュー戦での4三振は、すべて"空振り三振"だったところに長嶋のすごさがある。普通なら金田さんの速球に圧倒されて、見逃し三振するはずなのに」と。ことあるごとに長嶋さんのことを口に出していたのは、"好きの裏返し"だったのではないでしょうか。

── 小島さんが知る「素顔の野村監督」とは?

小島 楽天の監督を退任した頃から、日本野球界の衰退を憂いてボヤいていましたね。「1回から9回まで、来た球を打つだけではダメなんだ。何を考えて野球をやっているのか」と。最後まで野球を愛し、プロ野球界のことを気になされていました。

 亡くなられた年は、ヤクルト・高津臣吾監督、阪神・矢野燿大監督、西武・辻発彦監督、日本ハム・栗山英樹監督、楽天・三木肇監督ら、監督の教え子たちが、監督として野村野球を継承していました。その後も、楽天・石井一久監督、日本ハム・新庄剛志監督、そして今年はロッテに吉井理人監督が就任します。「人を遺すは上」──野村監督は言葉どおり、プロ野球界に人を遺しました。

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