野村克也の専属マネージャーが明かす「ノムさんの仕事と素顔」。最後まで野球を愛し、「来た球を打つだけではダメだ」と球界の衰退を憂いていた (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

 大好きなアイスコーヒー(ミルク付き)を飲みながら、1日に2社くらいの取材を受けていました。一度、私が朝11時からラジオの収録の仕事を入れた時は、ふだん怒らない監督がかなりご立腹で、1時間ほどお説教されたのを今でもよく覚えています。なぜなら、監督は深夜3時、4時に寝て、朝10時とか11時に起きる生活をしていたからです。

 ホテルのダイニングカフェでは撮影ができないので、必要な時は小会議室で行ないました。仕事の"ゲームセット"は夜9時、沙知代夫人から監督の携帯電話に入って終わりとなります。すると「ほら、そろそろ取材終われとのことだ」と。慣れていない取材者の方は、沙知代さんからの"早く終われコール"に恐れをなし、インタビューは駆け足で終わっていました(笑)。そこからお二人で外食に行かれていました。

 監督は亡くなる前まで、かなりの大食漢でした。元プロ野球選手として量を食べることもあるかもしれませんが、幼少時代はかなり苦労したと聞きます。食べることは、すなわち生きることだったのかもしれませんね。

【現場復帰に最後まで意欲】

── 2009年シーズンを最後に楽天の監督を退任されましたが、その後も現場復帰に意欲を見せていたと聞きました。

小島 2011年、12年の頃は、「DeNAあたりが監督に呼んでくれないかな」と冗談っぽく言っていました。また高津臣吾さんがヤクルトの監督に就任した2020年のOB会で「高津監督、ヘッドコーチの御用はありませんか」と言っていたくらいです。その1カ月後に亡くなられるのですが、じつは初めてのOB会出席。いま考えれば、ヤクルトの教え子たちに別れを告げようとしていたのかもしれないですね。

── 監督のお話は「野球の技術モノ」「指導者論」「選手批評」の3つに大別されますね。

小島 関連の著書は、ゆうに100冊を超えます。最盛期は1週間に2冊発売。さすがに多く、書籍同士が「食い合い」をしていました。以降、1カ月に1冊とか、同じ分野の書籍は間をあけるなど、調整させていただきました。

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