江藤慎一は犠牲フライの監督指示を無視。見逃し三振で堂々とベンチに戻ってきた (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 共同

 やがて同じ地域に居住していた日本人たちは天津の収容所に送られた。今でこそ、北京~天津は高速鉄道で35分で結ばれているが、当時は120キロの距離を着の身着のままで、歩いて移動せねばならなかった。疲れ果てた母親は途中、何度か稲川をこの大地に置いて行こうかと考えていたと、帰国後、その心情を本人に吐露したという。収容所で過ごした後、米国船籍のLST号に乗って、稲川の家族は佐世保港に辿り着いた。戦争の記憶はまだ生々しく残っていた。

「森さんと慎ちゃんとの交流は続いていたし、だから中日にいた頃から何かと縁があったし、実際に対戦もしましたからね。自信を持っていたカーブやスライダーをうまく引っ張られたという印象があるね。投手としての僕は、バッターは構えが一番大事だと思っているけれど、それが最も決まっていたのが、飯田徳治さん。次が豊田泰光さんと慎ちゃんだったかな」

 修猷館高校時代は野球部の他にも山岳部と生物部に所属し、現在も日本屈指の蝶の収集の専門家としての顔も持つ稲川は、細部まで違いにこだわるその秀でた観察力で江藤のことをこう見ていた。

「完成されたフォームは固まっていた。それでも毎年、細かい微調整をしてシーズンに入ってきた。年によって変えるわけだから、あれは相当な努力をしていますね。右と左の違いはあるけど、ベイスターズの寮長の頃に見た筒香(嘉智)にも似た雰囲気を感じます。ただロッテを経て、大洋でチームメイトになったときは、もう少しずつだけれど、現役としては下り坂にきていたかな」

 大洋時代の江藤は、松原誠、J・シピンとクリーンナップを組み、王貞治、野村克也を抜いて通算満塁ホームランの日本記録(12本)を樹立しながら、持病になっていた右太ももの肉離れが再発した。ケガによる欠場も少なくなかった。

 一方で稲川にとっては忘れられない試合がある。江藤が大洋に来て3年目の1974年のゲームだった。この年は山下大輔のルーキーイヤーで指揮官は宮崎剛だった。

 開幕してから不振で、6週間ノーヒットが続いていた。ようやくヒットが出ても、続かない。ついには、0割9分3厘という数字が電光掲示板に並んだ。スランプの最中、ワンアウト、ランナーが三塁にいる局面でバッターは江藤。気合を入れて打席に向かおうとするところを監督が呼び止めた。「ライトフライでいいから、気楽に行け」途端に江藤の顔が変わった。

「不調だから、リラックスさせようと監督は犠牲フライでOKだと伝えたんですが、そうしたら、一度もバットを振らないんですよ。見逃しの三振を堂々としてベンチに戻って来ました」

 プライドを傷つけられたことに対する抗議だった。しかし、反骨心に火が点き、ここから急激に江藤は打ち出した。ボールの見極めやグリップの位置、スタンスの幅、入念に行なっていたこれらのチェックをやめて、ただ投手に向かっていく気持ちを全面に出した。無心で来た球を打ち、気がつけば、夏には3割4分1厘まで打率を上げたのである。

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