門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 フォークを覚えてからの村田を門田は「第二の村田兆治」と呼び、「ほとんど打てんようになった」と言って笑った。

「フォークの握りを見せてから放ってくることもあったわ。こっちは打席から『兆治、野球はまずストレートやろ!』って言うて、真っすぐを投げさそうとしたりな......。漫画の世界やろ?(笑)。兆治のフォークは、人差し指、中指のかかり方で揺れながら外に落ちたり、内に入りながら落ちたり、厄介な球やったんや」

 たまに軽打でレフト前に弾き返したくなることもあったが、一度もしなかった。

「2番を打っとった新井(宏昌)がカチーンとレフト前に打ったりして『ええな』と思うんやけど、オレがそれをやったら兆治との勝負は終わってしまう。いつでもこっちはホームランを打つスイングをして、向こうは空振りをとる球を投げる。それがオレらの勝負やったから。そう思うたら苦しめられたけど、楽しい勝負をさせてもらった。ええ時代やったわ」

村田兆治に聞きたかったこと

 そして話は引退後の話になった。

「オレはゼロやけど、兆治もコーチをやったのは一回だけやろ。王(貞治)さんが九州で監督をやった時や。でも、そこで体壊してな。オレらの哲学を持って、若い選手らに教えるのは大変やったんやろう。生きてきた世界も、目指す世界も違うんやから。コーチを辞めて、そのあとからか、島をめぐって子どもらにか......」

 村田はその遺伝子を離島の子どもたちに授けようと、2008年からライフワークとした。野球少年たちの純な心は、村田にとって最高の癒しだったのだろう。人混みを避けるように離島の野球少年のもとへと向かうその姿に、人づき合いに疲れ、山間の町へ越してきた門田とまた重なった。

「でも兆治は、まだ教えられる相手がおってよかったやないか。オレなんかなんもないまま、もう片足は棺桶や」

 たっぷりとライバルとの思い出話を語った最後、門田はしみじみとした口調で叶わぬ思いを口にした。

「野村(克也)のオヤジが解説なんかやりながら、『昔のプロ野球を見たい』ってボヤく時があったけど、兆治は最近のプロ野球をどう見とったんやろうな。彼はひたすら『ほんまもん』って、そればかりを求めとった男や。それが今のバラエティが混じってきたようなプロ野球をどう見とったんか。もう聞かれへんど、聞いてみたかったわ」

 今とは「エース」と「4番」の定義が違った時代。男のプライドがダイレクトにぶつかりあった昭和のパ・リーグの戦いの景色が、切なくも眩しく思い出された。

【著者プロフィール】谷上史朗(たにがみ・しろう)

1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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