ヒルマン政権の日本ハムはなぜ強かったのか。森本稀哲が感じた、選手の集中力を生むメリハリ (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――森本さんは、自分が1番打者に向いていると思っていたんですか?

森本 高校時代(帝京高)は基本的に3、4番などクリーンナップを任されていましたが、プロ入り後に二軍で初めて1番を任された時、「なんとなく自分に向いている」と感じたんです。それから徐々に「1番を打ちたい」という気持ちが強くなっていきました。

――ヒルマン監督の野球をひと言で表現するなら、どんな言葉になりますか?

森本 合う言葉があるとすれば、"ファイティングスピリット"ですね。チームが連敗している時などは、チームミーティングで「戦う気持ちはあるのか!」と、ものすごい形相で選手たちに喝を入れることがありました。常に勝ちを求める情熱に溢れていましたね。僕も戦う姿勢をどんどん前面に出して、1番打者としてチームを引っ張っていきたい、鼓舞したいというタイプなので、そこがマッチしていたんだと思います。

――当時、球界屈指の外野陣を形成していた新庄剛志さん(現日本ハム一軍監督)、稲葉篤紀さん(現日本ハムGM)、森本さんが、攻守交代の際に守備位置まで全力疾走するシーンが印象に残っています。

森本 二軍で監督を務めていた白井一幸さんが改革を進めていて、2003年にヒルマン監督が一軍の指揮官になった頃には、攻守交代の際の全力疾走が二軍では浸透していました。そのあと、新庄さん、稲葉さん、僕で外野を守ることになった時に、新庄さんから「守備位置につく時は、しっかり軽快に走っていこう」と言われたんです。

 稲葉さんはもともといつも全力疾走していましたし、僕もよく走っていましたが、そこからより走る意識が高くなりましたね。グラウンドにいる時は常にファンから見られているので、攻守交代でも"魅せる"ことを考えていました。ヒルマン監督がミスを恐れずに思い切ってプレーできる雰囲気を作り、同時に新庄さんが「のびのびやろうぜ!」とリーダーシップを執ってくれたことが、チームの飛躍につながったと思います。

――球場のファンは見ていて気持ちがよかったでしょうし、相手チームには「隙がないチーム」という印象も与えていたように思います。

森本 個性的な選手が多かったので、端から見ると賑やかなイメージもあったと思いますが、プレー面ではすごく緊張感がありました。シートノックなども本当にピリッとした空気の中でやっていましたし、選手たちの集中力は半端ではなかったです。一方で力を抜いてもいい時は、ものすごく抜いていました。楽しむ時はワーッと楽しんで、やる時はガッとやる。そういうメリハリがありましたね。

――ヒルマン監督時代の日本ハムは、投手を中心にした守り、つながりを重視して確実に1点を取りにいく野球が徹底されていた印象があります。当時、楽天の野村克也監督は「強さを感じないんだけど、なぜだか負けてしまう」と、独特な表現で試合巧者ぶりを評価していました。

森本 その言葉は、当時の僕たちにとっての最高の褒め言葉です。特に、リーグ最少の73本塁打でリーグ優勝した2007年は、チームを象徴するシーズンでしたね(一方で、失策数はリーグ最少の65、犠打はリーグ断トツの151、盗塁リーグ2位の112だった)。勝負どころをおさえて、勝ちにつなげられるチームでした。

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