斎藤佑樹が回想する高校1年「野球で挫折した記憶はない。キツかったのは早実の理不尽なルール」 (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 もしひとりで通っていたら、たぶんどこかで「もう、いいや」となっていたかもしれません。高屋敷さんが毎回、「斎藤、行くぞ」と誘ってくれたから、通っていました。高屋敷さんと一緒だとチームのメニューとは別にトレーニングに行くことも許してもらえたんです。高屋敷さんの頑張る姿を見ているから、和泉監督も任せていたんでしょうね。

 ただ、それほどキツいトレーニングを続けた成果は間違いなくありました。筋肉痛が引くと超回復した感じがあって、ブルペンで投げるとボールがものすごく軽く感じるんです。実際に測っているわけじゃないので正確なスピードはわからないんですけど、「これ、140キロ、出たんじゃないの」という手応えはありました。そんな毎日を続けて、一冬越して、年が明けて、春の大会の前には142キロが出ました。

理不尽な早実野球部のルール

 もともと僕は遠投を大事に考えていて、1年生の時は白川(英聖)と一緒によく遠投をしていたんですけど、その効果もあったと思います。だいたい、90から100メートルくらいだったかな。当時の白川はピッチャーで、お互い、けっこうな距離を投げられたので、いかに低い弾道で投げられるかを競い合いながらやっていました。中学の頃から、スピードを出すためには遠投がいい練習だと感じていたんです。

 野球に関しては、高校のレベルでもあまり壁にぶつかったとか、挫折したという記憶はありません。実際にそうだったのか、それとも覚えていないだけなのか、そこはわからないんですけど、あの時期、大変だったのは野球以外のことでした。

 学校の近くのアパートを借りて、予備校に通う兄と暮らし始めたんですけど、通学時間は短くなったものの、やっぱり食事のこととか、いろいろ思うに任せないことはいくつもありました。

 とくにキツかったのは、早実の野球部に残っていたいくつかの理不尽なルールでした。当時、早実の野球部には、1年生は学食を使えない、コンビニに立ち寄ってはいけないという決まりがあったんです。正直、これには参りましたね。

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 この時期、斎藤の朝食は納豆とごはん、昼は兄の聡仁さんがつくってくれた卵焼きとウインナーのお弁当。夜は、週に一度の上京をしていた母のしづ子さんがつくり置きしていたおかずを食べていた。

(第7回へつづく)

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