野村克也と伊原春樹に決定的な亀裂。ある選手の盗塁失敗が原因だった (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

 ところが、次第に「ミーティングでの野村」と「現実の野村」との乖離に、伊原の中には違和感が募っていく。ミーティングでは立派なことを述べていても、実際の野村は朝の散歩には参加せず、朝食会場にも姿を見せず、あいさつをしてもまともに返事が返ってくることもない。選手たちに説いていることと、実際の言動があまりにも違いすぎることにイラ立ちを隠せなくなっていく。

 そして、決定的な亀裂が訪れた。ジェイソン・ハートキーの盗塁失敗をめぐって、伊原と野村の間には修復しがたい溝ができてしまったのだ。相手投手の牽制の傾向から、「ここは走れる」とサインを出したものの、ハートキーは盗塁死してしまう。伊原は監督室に呼ばれて、こんな言葉を告げられる。

「お前は自分の功名心のために盗塁のサインを出しているのか?」

 この言葉は伊原のプライドを痛く傷つけた。この日から、彼がサインを出すことはなくなった。伊原への「全権委任」がはく奪されたのだ。そして、この年限りで伊原は阪神を去ることとなる。

【愛憎相半ばする野村への想い】

 伊原と野村がたもとを分かってから、20年が経過した。伊原が笑顔で当時を振り返る。

「野村さんは面白い人だったね。私がまだ若かった頃はお互いに現役選手として、いろいろ野球を学ばせてもらいました。お互いに控えだったから、ベンチで隣同士で座っていると、『おい、今の作戦、どう思う?』なんて聞いてくるわけです。そして、『こんなんで勝てるはずがないだろう』って、グチグチ文句を言う。すぐそこに根本(陸夫)監督がいるのに(笑)」

現在は茨城トヨペット硬式野球部のヘッドコーチを務める伊原 photo by Hasegawa Shoichi現在は茨城トヨペット硬式野球部のヘッドコーチを務める伊原 photo by Hasegawa Shoichi 小学生の頃の伊原は、南海ホークスの主力選手だった野村に憧れていた。西武では同じユニフォームを着て多くのことを学んだ。そして、1992、1993年は敵将として野村の凄みを痛感した。しかし、「監督とコーチ」として同じユニフォームを着た阪神時代に、意見の相違によって不信感が募ることとなった。

「阪神時代には陰気な感じが強くなっていました。『選手が活躍したら、手柄はオレのもの。選手がミスすれば、コーチの責任』。そんな感じでしたから......」

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