虎の救世主・岩崎優「心が折れたことは一度もない」 (2ページ目)

  • 岡部充代●文 text by Okabe Mitsuyo
  • photo by Nikkan sports

―― ボールの出どころが見えづらく、球持ちの良いフォームは自然と出来上がったと言っていましたが、最初にその点を褒められたのはいつか覚えていますか。

「(軟式)野球を始めた中学校で、コーチの方にそういったことを言われた記憶があります。あとは大学に入った時、監督に『お前の持ち味は、その球持ちがいいところだぞ』と言われました」

―― 野球を始めたのは、中学に入ってから?

「野球が好きで、やりたかったんですけど、『変なクセがつくとよくないから』という父の方針で中学からしかやらせてもらえませんでした」

―― 小学生の時にやっていた水泳の成績は?

「市内の大会で賞状をもらったことがあるくらいです」

―― 中学の野球部は強かった?

「いえ、県大会に出るようなチームではなかったです。市でベスト4くらいまででした」

―― 中学を卒業して清水東高校に進学。高校に入ってすぐ、監督に「プロに行きたい」と言ったそうですね。

「小学校では野球をやっていないんですけど、その時からなんとなく『プロ野球選手になりたい』と思っていたので......。高校の時も"夢"みたいなものです。野球をやっている以上、プロ野球選手を目指すのが普通じゃないかという感覚で言いました。ただ、できるだけ上を目指したいというのはありましたね。高校の時は大学でやりたいと思いましたし、大学の時は社会人に行きたいと。だんだん上がっていくことをイメージしていました」

―― 心が折れそうになったことはありませんでしたか。

「ありますね。だんだんと年を重ねるにつれて、現実的なことを考えるようになるので。別に球も速くないですし、全国大会に行ったわけでもない。『行けるわけないだろう』って。ただ、プロには行けなくても、ひとつずつ(上へ)と思っていました。大学ならやれるんじゃないかというのはあったので。プロに対して心が折れることはありましたけど、野球に対しては折れたことはありませんでした」

―― 国士舘大学で実績を残したとはいえ、東都リーグの2部。どのくらいプロを意識していましたか。

「大学の監督にも『プロに行きたい』と言っていたんですけど、それも、そんなに強い思いで言っていたわけじゃないです。ただ、自分が1年の時に4年生だった先輩(屋宜照悟)が、社会人(JX-ENEOS)を経て、日本ハムに6位指名を受けたんです。自分が3年の時です。一緒にやっていた人が初めてプロに行って、『ああいう人が行けるんだ』みたいな感じで、頑張ってみようかなとなりました」

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