「野球しかやってきていませんが、御社では役員になれますか」 大阪桐蔭「藤浪世代」の森島貴文は指導者ではなくサラリーマンを選んだ (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tamigami Shiro

 コーチ2年目の4年秋、チームは神宮大会出場。有言実行の形となり、自らの大学生活を締めくくった。指導者としての経験も積み、西谷の歩みとの重なりも感じながら森島の話を聞いていると、教員、指導者への道は考えなかったのかという思いが頭をよぎった。

「大学3年で就活を始める頃に西谷先生から『教員にならへんのか?』と聞かれたことがありました。でも365日、西谷先生みたいに野球漬けの生活は自分にはできないなと......」

 西谷は、大阪桐蔭の初代監督で関西大OBでもある長澤和雄に誘われ、大学卒業と同時に大阪桐蔭へ教員として赴任。同時に野球部コーチとなり、その後28歳で監督となった。

「自分がもし会社の社長をするとしたら、必ず声をかける」と森島の人柄、働きぶりを評価していた西谷のこと。森島の返答次第では「いずれは一緒に......」との思いを持つことになっていたのかもしれない。

【サラリーマンってカッコいい】

 この時期、森島の進路に興味を持っていた人物がもうひとりいた。当時、福井工大福井で野球部監督を務めていた田中公隆だ。田中は、森島らが3年時まで大阪桐蔭でコーチを務めており、その後、森島の弟が福井工大福井の野球部に進んだことで縁が続いた。大学在学中に小池、白水健太らの同級生を誘って練習の手伝いに行ったことがあった。

 そうした関わりのなかで、田中も森島の指導者としての資質を感じていたのだろう。「一緒に甲子園を目指そう」と、何度も熱心に誘った。ちなみに福井工大高はその後、白水がコーチとなり、現在は監督を務めているが、これは森島の勧誘からつながったもの。つまり、森島は田中の誘いに首を縦に振ることはなかった。

「教員免許は、もう少しで取れるところまでいっていたんです」

 しかし、"あと少し"を積極的に取りにいくことはなかった。西谷のように365日野球中心の生活はできないと思ったことはたしかだ。しかしその思いとは別に、森島には早くから描いていた人生プランがあった。

「大学を卒業したら安定した会社に入って、しっかり給料をもらって、楽しい家庭生活を送る。そういう人生を送りたいっていう思いがずっとあったんです」

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