「清原和博も1年からすぐ練習に参加できると知ってPLに来てくれた」甲子園の勝率.853、教え子39人がプロ入りの中村順司が語る指導論 (4ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

●選手に恵まれ今の自分がある

 初めての甲子園采配で、決勝に進出。試合前に選手たちに言ったのは「泥んこになって暴れてこい!」。そうしたら、プレーボール直前に選手全員がグラウンドの砂を顔に塗りつけている。優勝してホームベース上に一列に並んだ時の顔がみんな真っ黒で、それがとてもうれしかった。のちに巨人で活躍する吉村禎章が主将でした。

 最後の試合は1998年センバツの準決勝、松坂大輔を擁する横浜(神奈川)との一戦。前年夏で退くつもりでしたが、後任監督が決まらず半年間伸びました。18年もやらせてもらいやりきった、そして感謝の思いでいっぱいでした。

 PL学園野球部は、2016年で活動を休止。事実上廃部となっています。寮はずいぶん前に取り壊され、球場はそのままですがほとんど使われず、スコアボードが取り外されたと聞いています。

 OBたちでさえこの場に入ることは容易ではなく、私自身も足を運ぶことはほとんどありません。ただ、桑田がOB会長をしていますので、いつかいいニュースを聞くことができたらなと静かに見守っているところです。

8月5日で77歳となった中村。監督時代の思い出は鮮明に覚えているという 写真/スポルティーバ8月5日で77歳となった中村。監督時代の思い出は鮮明に覚えているという 写真/スポルティーバこの記事に関連する写真を見る(文中敬称略)

終わり

前編<「清原和博、桑田真澄の1年生の起用は上級生の反発もすごかった」PL学園元監督の中村順司が明かすKKコンビ秘話>を読む

中編<「立浪和義・片岡篤史は徳を積むために草むしりをしていた」PL学園元監督の中村順司が甲子園春夏連覇の偉業を振り返る>を読む


【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1981年春のセンバツで優勝を飾ると、1982年春優勝、1983年夏優勝。1984年春の決勝で敗れるまで甲子園20連勝を記録。1998年のセンバツを最後に勇退。18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。

プロフィール

  • 藤井利香

    藤井利香 (ふじい・りか)

    フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。

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