「清原和博も1年からすぐ練習に参加できると知ってPLに来てくれた」甲子園の勝率.853、教え子39人がプロ入りの中村順司が語る指導論 (2ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

●「無事これ名馬」体の使い方にはうるさかった

 たとえ有望選手であっても、「姿勢」「歩き方」「走り方」が指導のスタートでした。骨や筋肉といった体のつくりを理解し、ムダのない動きを身につける。そのうえで、どうすればバットに自分の力を無理なく伝えて打てるのか、どうすれば強くて速い球を投げられるのか。そういったことを考えさせました。

 正しい動きができればケガを防げます。PLのOBたちは長く野球を続ける者が多く、福留孝介などは45歳までプレーしましたからね。まさに「無事これ名馬」です。私はグローブ片手にグラウンド内を歩き回り、一人ひとり手取り足取り、コーチすることが好きでした。

PL学園の当時の指導について熱弁する中村 写真/スポルティーバPL学園の当時の指導について熱弁する中村 写真/スポルティーバこの記事に関連する写真を見る

●人として認められなければ試合に使わない

 身勝手だったり、人としてどうかと思う時はとことん厳しく接しました。選手に聞けば、叱られたのはいつもそんなことだったって言うでしょうね。

 振り返って、1年生から甲子園に出場していた桑田真澄や清原に浮かれたところがなかったのは、先輩、後輩の関係が厳しかった寮生活に加え、「自他祝福」といったPL教の教えが大きかったでしょう。相手の気持ちを思いながら行動し、自分がチームの中で何ができるかを常に考える。

 グラウンドに出れば、「練習を始めさせていただきます」「練習を終わらせていただきます」。常に感謝の気持ちを忘れず、そんな環境が5季連続甲子園出場を可能にさせ、全国優勝という栄誉をも与えてくれたのだと思います。

 よく人から、PLの選手はガツガツしておらず大らかだと言われます。上からはかわいがられ、下からは慕われる。そんな選手になってほしいと思いながら指導していました。

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