初出場「きらやか銀行」が都市対抗で起こした創部65年目の奇跡 (3ページ目)
一方で、打線も得点こそなかなか奪えなかったが、序盤からパナソニックのエース・藤井聖太から安打を重ねた。これは大向誠監督の「練習から逆方向への意識を徹底させている」というチーム方針と、やはり梅津のデータ分析が生きた形だった。
「藤井の先発は読めていたので、真っすぐとカットボールの見極めがポイントになりました。勝負どころであと一本が出ていれば、もっとラクだったんですけど......」(梅津)
それにしても、なぜ梅津は選手でありながら、データ分析という裏方の役割までこなしているのだろう。小島も安成も「梅津さんは自分の練習時間を削って偵察 や分析をしてくれている」と口を揃えた。その背景には、梅津がチームの「暗黒時代」を知る、唯一の選手であるという要因があった。
梅津はしみじみと言った。
「やっぱりつらい時期があったので......。クラブチーム時代の最後の生き残りとして、都市対抗に出られて涙が出そうになりました」
2007年に殖産銀行と山形しあわせ銀行(旧山形相互銀行)が合併してできたきらやか銀行は、その年に野球部が企業チームからクラブチーム登録になった。多くの部員がチームを去っていくなか、梅津は2009年にきらやか銀行に入行している。
「当時は選手が14人くらいで、大向監督も選手兼任で試合に出ていました。投げないピッチャーの人がDHに入ったり、練習試合で高校生に負けたり......。練習は土日だけで、平日は仕事が終わった夜に自主練習。道具の支給も最低限だけでした」
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