【自転車】片山右京「第101回ツール・ド・フランス開幕」

  • 西村章●構成・文・写真 text & photo by Nishimura Akira

 今中は、近代ツール・ド・フランスに参戦を果たした最初の日本人だ(厳密には、現代のように競技が整備されていなかった時代の1926年と1927年に川室競が参戦している)。片山右京と同じ1963年生まれの今中は、1994年に単身渡欧し、イタリアの名門プロチーム「チーム・ポルティ」に所属。その当時、片山はティレルからF1に参戦していた。偶然にも、ともにレースの本場である欧州で活動をしていたわけだが、当然ながらこのときはまだ両者の間に面識はない。

「右京さんも最初にヨーロッパに渡ったときは手探りで、その日の気分で期待と不安が出たり入ったりする精神状態だったと思うんですが、僕の場合は、まったくの不安だらけでした」

 と、今中は当時の自分を振り返る。

「当時所属していたシマノの社長に、ヨーロッパに行かせてくれと直談判して、『そこまで言うならやってみろ』とゴーサインを出してもらったんですが、それにしたって片道切符です。自転車も向こうでは用意されない可能性があるので、自分で抱えて持って行きました。最初のころ、ポルティのチーム監督はロクに話もしてくれないような状態で、レースにも出してもらえないし、『このまま日本に帰されるのかな......』とも思ったんですが、不安を抱えてばかりいても仕方ないので、毎日の練習の様子を書いて監督に提出していました。たとえ、彼が昼寝をしている時間でも必ず行って、『また来たのか』と言われながらも、とにかく自分を見てもらおうと日参しました」

 このとき、今中はすでに31歳。アスリートとしての選手寿命を考えると、けっして早い年齢での挑戦ではない。

「今の時代ならネットでたくさんの情報が分かるから、あらかじめ調べて、挑戦が可能かどうかという予測を立てることもできるけれど、僕らの時代にはそんなものは何もありませんでしたから。右も左も、何もかも分からない尽くしだったからこそ、挑戦できたんだと思います。右京さんも、おそらくそうだったんじゃないでしょうか。『今、やれ』と言われても、絶対にできないですね(笑)」

 その努力が認められて、今中は少しずつチーム内での信頼を得るようになっていった。1995年には、ジロ・デ・イタリアに、そして1996年にはついに、ツール・ド・フランスへ出場する。

 日本人選手が世界最高峰のサイクルロードレースを事実上初めて走ったという意味で、この参戦は間違いなく快挙であった。だが、今中は最終ステージまで完走を果たすことはできなかった。体調不良や故障などが重なり、第14ステージでリタイアを余儀なくされた。

 その後、翌1997年のシーズン終了をもって、選手活動を引退。現在は、現役時代に蓄積した人脈を活かして自転車輸入商社のインターマックスを運営し、様々なメディアを通じてサイクルロードレースの普及啓蒙活動にも精力的に取り組んでいる。それらの活動の中で片山右京と出会い、TeamUKYOの設立時からテクニカルアドバイザーに就いていることは、この連載の初期にも触れたとおりだ。

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