宮司愛海アナが語る北京五輪。厳戒態勢で選手に感じた「ふだんどおりのパフォーマンスを発揮することの難しさ」

  • スエイシナオヨシ●撮影 photo by Sueishi Naoyoshi

大変だったのは日々の「移動」

 北京入りしたのは、開幕約1週間前の1月29日。

 中国から指定された病院で、出国の96時間以内に2回、PCR検査が義務づけられ、アプリを通じての健康管理関係書類の提出や、体温報告などが求められました。念のため検査の2週間ほど前から仕事以外で自主隔離を行ない、無事陰性証明書を手にして北京入りすると、まず空港の様子に驚かされます。防護服姿の職員に、がらんとした空港内。渡航が制限されているため、空港にいるのもオリンピックの関係者のみだったのですが、見慣れない防護服とあまり経験のない物々しい雰囲気に、少し動揺しました。

 諸々の手続きと喉と鼻の粘膜の2種類PCR検査を終えたあと、やっと空港を出ることができました。

 今大会は「クローズドループ」と呼ばれる、ある一定のエリア内のみで取材活動が許されるバブル方式でのオリンピックだったため、どんなに会場が近くても徒歩で移動することが許されず、バスやタクシーなど車での移動となりました。

 メディア向けのバスはさまざまな路線があり、ほぼすべての会場で1時間に1本以上の便が用意されていたのですが、それでも移動が最も大変だったかもしれません。たとえば、拠点のメインメディアセンターからカーリング会場などは歩いて行ける距離にあるのに、バスに乗り規制された道路で遠回りして行かなければならなかったり、試合直後にはメディアでバスが混み合ったり。仕方ないことだと理解してはいましたが、徒歩やほかの移動手段があれば、と思ったのは一度や二度ではありません。

 また、メディアセンターはじめ会場の周りはフェンス等で仕切られ、警備員も多く配置されて不思議な雰囲気が漂っており、ホテルの前にも高く頑丈なフェンスが設置されていたため、「ちょっと歩いて買い出しに......」という訳にもいきません。車の窓も開けてはならず、完全に外部と断絶されたオリンピックでした。

 もちろん、PCR検査は毎日受けなければなりませんでしたし、陽性となればすぐ隔離用のホテルで隔離となってしまうため、検査結果に毎日冷や冷やしていました。人との接触を最低限にしていてもかかる時はかかってしまうのがコロナウイルス。中でも外でも油断ならない......そんなプレッシャーとともに過ごしていた毎日でした。

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