2020.12.08

ネガティブなスイマーが五輪で金メダルを獲るまで。金藤理絵の長い苦闘

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

 だが、そんな複雑な気持ちも、チームメイトが大喜びする姿を見ると、一瞬で吹き飛んだのだ。

 そんな金藤が世界の頂点にたどり着くまで、長い道のりがあった。

 高校3年のインターハイの200m平泳ぎでは、当時の日本歴代7位の記録で優勝し、注目された金藤。東海大2年の時の08年日本選手権は、種田恵に次ぐ2位で派遣標準記録を突破して北京五輪代表になった。五輪本番では2分25秒14の自己ベストで泳いで7位だった。

 高速水着を着用した09年には、4月の日本選手権で、その時点では世界歴代7位となる2分22秒33の日本記録を出した。さらに7月のユニバーシアードで再び日本記録を更新して優勝。初出場だった世界選手権は5位にとどまったが、9月の日本学生選手権は、同年の世界ランキング3位で歴代4位の2分20秒72まで記録を伸ばした。

 だが、10年に椎間板ヘルニアを発症してからは低迷。12年ロンドン五輪へ向けては、年下の鈴木聡美や渡部香生子に敗れて代表に届かず、メダルラッシュに沸く五輪を国内で観戦した。13年は、日本選手権で優勝して世界選手権に出場したが、0秒59差でメダルに届かず4位。レース終了後のミックスゾーンでは、引退を口にするほどだった。

 しかし、大学時代から指導を受ける加藤健志コーチに説得されて現役続行を決断。それでも、力をつけて日本女子のエースとなっていた渡部になかなか勝てないまま。15年の世界選手権も渡部が優勝してリオ五輪内定を果たしたのに対し、金藤は決勝でタイムを落として6位と結果を出せないでいた。

「あの世界選手権は順位やタイムよりも、消極的なレースをしてしまったことが悔しかった。もし、あの時下手にメダルを獲っていたら、今の自分は絶対になかったと思います。あそこで本当にスイッチが入りました」