寺川綾の成長物語。悔し泣きのアテネからロンドンで納得の涙を流すまで (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

無料会員限定記事

「正直、辛かったですね。みんなに200mに向いていると言われても、自分では『そうじゃないのに』と思っていましたから。周囲からの期待を背負うようになってから、『なんでそんなにプレッシャーをかけるの』と重く感じていました。当時は追い詰められながらギリギリのところで泳いでいたような感じです」

 そんな気持ちで臨んだアテネ五輪の200mは、決勝に進出したものの結果は8位。自己ベストにも遠く及ばないタイムだった。それまでに出場した2度の世界選手権とは違う、五輪のすごさ、難しさを思い知らされた。レース後は自分の不甲斐なさに涙をポロポロ流し、銅メダル獲得の中村礼子を見て「私もああなれたらいいな」と初めて強い〈欲〉が湧き出た。

 4年後の北京へ向けて自分の意識を変えるために考えたのが、本拠地をアメリカのロサンゼルスに移すことだった。クラブの先輩である千葉すずから「日本では(コーチなどに)追い込んでもらう練習が多いけれども、アメリカはそうではない。自分から進んでやっていかなければ、強くなれない環境だ」と聞いたのが印象深かった。

 実際に渡米してみると目からうろこが落ちるほどの練習環境の違いを実感し、「水泳を楽しめそうだ」と思った。だが、コーチの多忙により、常時練習をみてもらえない状況になって、短期間の滞在で帰国することに。思ったように練習できない状況が続くなか、06年パンパシフィック選手権に出場できず、07年3月の世界選手権も05年に続いて出場を逃した。さらに日本選手権では、中村や伊藤華英に敗れ、200mに至っては決勝に進出できないほど調子を落としていた。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る