松田丈志が北京五輪決勝レースの前に涙が出そうになった真相 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by kyodo news

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 その最初のステップは、400mと1500m自由形、200mバタフライで出場した04年アテネ五輪だった。だが、唯一決勝に進んだ400m自由形は、5月に出したアジア記録に0秒15まで迫る3分48秒96と力を出し切ったものの8位。メダル圏内の3位との差は4秒85もあった。4月の日本選手権でアジア記録を出した1500m自由形でも予選13位で敗退し、世界との差を思い知らされる結果に終わった。

 この大会で、日本チームは北島康介の2冠と柴田亜衣の金メダルの計3個に加え、銀1銅4を獲得するメダルラッシュだった。帰国後の成田空港で、松田は敗者として帰ってきた悔しさを感じた。

 祝福されるメダリストの中には、男子200mバタフライでアジア新の1分54秒56を出し、前年の世界選手権に続いて銀メダルを獲得した山本がいた。一方、松田自身は、その200mバタフライで準決勝14位という結果に終わっていた。メダリストたちの姿を見て、松田は「五輪はメダルを獲るべき場所だ。次の北京は200mバタフライでメダルを獲る」と決意した。

 山本が休養した05年は世界選手権の200mバタフライで銀メダルを獲得し、北京へかける思いを強くした。だが彼と久世コーチは、バタフライに専念するスタイルを取ろうとはしなかった。自由形と両立してきたからこそバタフライが強くなった、という確固たる信念があったからだ。

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