箱根駅伝で「男だろ!」の声かけに違和感。駒澤大時代を山下一貴が振り返る「2年時は抜かれすぎて何も感じなくなった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 西村尚己/アフロスポーツ

 山下は、たぶん来年以降の話だろうと思い、希望的に「ゆくゆくは1区よりも2区で戦いたいです」と答えた。すると、そのまま2区での出走が決まった。

「まさか自分がって思いましたね。チームには強い先輩がたくさんいるので、スタートラインに立つまでなぜ自分がって思っていました」

 大八木監督は、チームのバランスや選手の特性を考えて区間配置を決めたわけだが、山下は自分を2区に置いた理由について、どう思っていたのだろうか。

「監督から2区配置の理由を聞いたことはないですし、当時は聞ける感じじゃなかったので正確にはわからないのですが、個人的に思ったのは、監督は長い距離を走れて、食事をたくさんとれる選手が好きなんです。自分はわりと1年目から長い距離を得意としていて、地方のハーフマラソンの大会とかにも出場させてもらって、全日本でも8区を任されたので、これは期待してもらっているんだっていうのを感じていました。2区は、その流れで決まったのかなと思いますが、僕自身の希望としては、9区、10区で走りたかったですね」

 第94回箱根駅伝、1区の片西景から3位で襷を受けた山下は力を発揮できず、1時間09分58秒で区間13位に沈んだ。往路は結局13位、総合12位でシード落ちした。

「初めて2区を走った時は、もう他の人のことなんか考えられなかったですね。順位は意識しないといけないところがあったんですけど、そこまで力がなかったんで、とにかく最後まで粘って頑張ろうという感じでした。3年の時は、いい準備ができていましたし、自信もあったんです。実際、土方(英和・國學院大―ホンダ)や湯澤(舜・東海大―SGH)と一緒にいい感じで走ることができましたし、全体としてもシードを落とした翌年の総合4位だったので、みんなで戦えたと思いました」

 箱根駅伝を走っているといろんな声が聞こえてきた。「前とこのくらい離れているぞ」と前とのタイム差を教えてくれたり、「頑張れ!」「駒澤!!」と応援する声が飛んできた。そのなかで、山下が一番気になった声があった。

「まったく知らない人がいきなり『男だろ!!』と声かけしてくるんです。これ、知らない人に言われるとすごく違和感があるんですよ。それはやめてほしかったですね」

 山下は、小さく苦笑して、そう言った。

 その当時、箱根駅伝は、箱根3連覇を達成した青学大や「黄金世代」の選手が活躍して、箱根初優勝を飾った東海大が強い時代だった。

「2強でしたね。特に、東海は黄金世代と言われてタレント揃いでしたし、トラックもロードもまったく歯が立たない感じでした。もっと自分たちも勝負しないと、という思いはあったんですけど、層が厚くて、力もあったのでなかなか難しかったですね」

 山下は、4年時、3大駅伝をフルに走っている。初めての出雲駅伝は監督から「勝ってこなくてもいいから10秒差以内で戻ってこい」と言われ、1区2位という結果を残した。全日本大学駅伝は3年連続で8区アンカーを務め、区間3位。そして最後の箱根駅伝も2区を走り、区間13位、総合8位だった。

「最後の箱根は、出雲2位、全日本3位ときたので、箱根では4年間のなかで一番やれる感じがあったんです。でも、自分は長い距離の練習をしすぎて、スピードが出せない状態になっていて......。『箱根、大丈夫かな』というなかでスタートしたんですが、思ったとおり体が動かなくて半分ぐらいで打ち上がってしまいました。最終的に総合8位で、監督は渋い顔をしていましたけど、シード権を守れたことについては自分たちの代の責任は果たせたかなと」

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