桐生祥秀が日本人スプリンターの意識を変えた日。「世界と勝負する」 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Kyodo News

 追い風0.9mの条件下で予選第3組に出てきた桐生は、前年のロンドン五輪200m代表の高瀬慧と飯塚翔太を置き去りにして、10秒01で走り抜けたのだ。この記録は風速計が旧式だったため公認されなかったが、当時の世界ジュニアタイ記録で、日本陸連が設定した同年8月の世界選手権派遣記録をも突破するものだった。

 決勝は、追い風2.7mの非公認記録条件になった。終盤に硬さが出たものの、桐生は10秒03で、12年のロンドン五輪100mと4×100mリレーに出場した山縣亮太と江里口匡史にも競り勝って優勝。10秒01が単なるフロックではないことを証明した。

 98年12月のアジア大会で伊東浩司が10秒00を出して以来、9秒台は、日本の選手にとって届きそうでなかなか届かない領域だった。織田記念のレース後に桐生はこう話している。

「9秒台は夢だったのですが、あと0秒02だから現実(実現可能な目標)になったと思います」

 これをきっかけに桐生の名前は全国区になり、"9秒台"への日本中の期待を一身に背負うことになった。

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