神野大地が激白「僕はまだ五輪の切符を手にするレベルじゃなかった」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by AFLO

 優勝は中村が勝ち取り、2位には大迫との争いを制した服部が入った。初めて見たラストバトルのシーンが目に焼きついて離れなかった。そして、神野は、17位でフィニッシュした。

MGCが終わって振り返ると、僕はまだ五輪の切符を手にするレベルじゃなかったということです。自分は、これまでケニアやエチオピアに行ったり、他人と異なるアプローチで練習をしてきました。やってきたことに間違いはないし、無駄ではなかったと思っています。レース前も無理かなぁという気持ちはなくて、自分にも可能性はあると信じていました。チャレンジできる領域に入っていたと思うんですけど、実際走ってみると、東京五輪は今の自分の2段階、3段階も上の目標を掲げていたのかなと思います」

 神野がマラソンに転向したのは、青学大を卒業してから1年後、2017年になってからだ。その時、東京五輪という目標を掲げ、中野ジェームズ修一の下でマラソンを走る体づくりを本格的に始めた。先を行くランナーに追いつき、追い越すには同じことをしていては前に行けない。そのためにプロになり、アフリカで合宿をするなど独自の練習方法で努力を積み重ね、この日のために準備してきた。

「でも、甘くなかった。たとえば、勇馬は僕が大学3年の時からマラソンを意識して練習していたんです。でも、僕は卒業して2年目からマラソンに取り組んだ。勇馬は高校からエリートで、大学でも結果を出してきた選手。そういう選手が大学の時から準備してきているのに、エリートじゃない僕が2年ちょっとで東京五輪出場という目標は、いま思うとやっぱり大きすぎたかなと」

 これまで神野は、努力すれば手に届く目標設定をしてきた。青学大に入学した当初は、4年間で一度、箱根駅伝を走れればいいかなというレベルだった。努力を積み重ね、原晋監督のいう「半歩先の目標」をクリアし、大学2年の時には箱根を走った。

 次の目標は学生界のトップランナーではなく、「青学大内でエースになる」という目標を設定した。ストイックに競技に打ち込み、コツコツと努力して目標を達成し、成長してきた。その繰り返しの陸上人生だった。

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