2019.10.30

日本男子マラソンの礎を築いた男。
高岡寿成が1万mに固執したわけ

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

 伊藤監督は「1万mで26分台の記録を持つアフリカ人選手がマラソンにどんどん進出してくる中で、日本人が金メダルを獲れるのはコースが厳しい04年アテネ五輪が最後の大会になる」と予測していた。その読みを前提に、高岡は翌01年5月に1万mで27分35秒09の日本記録を樹立すると、本格的にマラソンに取り組み始めた。そして、初マラソンの01年12月、福岡国際マラソンで2時間09分41秒の3位に入った。

 当時の伊藤監督は、「これからはマラソンの世界記録も2時間04分、03分の時代に入っていくはず。そうなれば日本人が世界記録保持者になるのは無理だが、2時間05分38秒の今なら、世界記録保持者に名前を連ねることもできる」とも予測していた。

 監督の思いを受けた高岡は、02年10月のシカゴマラソンに挑戦。28kmから抜け出して独走し、35kmまで世界記録ペースで走った。だが、終盤は向かい風もあって失速し、40㎞手前で世界記録保持者のハリド・ハヌーシ(アメリカ)に抜かれて3位でゴール。だが、トラックではまったく歯が立たなかったテルガトに2秒先着し、2時間06分16秒の日本記録を樹立した。

 最大の目標にしていたアテネ五輪は、代表選考会の福岡国際マラソンで2位に4秒差の3位に止まったため、残念ながら出場できなかった。だが、トラックで実績を残してからマラソンに転向するという、日本長距離の新たなスタイルを作り上げたのは、間違いなく高岡だ。現在の日本男子マラソンの活況は、高岡が目指していた位置にやっと追いついてきた状況と言える。

関連記事